弱められた指示概念は意味の文脈依存性をうまく捉えられるか?
-----伊藤「浅い」指示論の評価に向けて----(柴田正良)
1. 浅い指示論(theory of shallow reference:TSR)の動機
本稿は、言語における文脈依存性の問題を「浅い指示」という独自の概念装置によって一貫してねばり強く追求してきた伊藤春樹の指示論(TSR)に、現段階で批判的な検討を加えようとするものである。この文脈依存性の問題は伊藤によれば指示ばかりではなく記述や比喩といった現象にも出現するが、それをてっとり早く理解するには、このところ心の哲学でずっと話題に登ってきた信念報告文の例を見るのが最善であろう。例えば、
(1) オイディプスは、イオカステこそ自分にふさわしい妻だと信じていた
しかしもちろんオイディプスの悲劇は、彼には分からなかったことなのだが、イオカステが自分の母親だったことである。しかし、事実において「イオカステ=オイディプスの母親」だからといって、
(2) オイディプスは、自分の母親こそ自分にふさわしい妻だと信じていた
と直ちに主張することはできないだろう。というのも、もし彼が(2)の埋設文「自分の母親こそ自分にふさわしい妻だ」の形で表現された自分の信念内容に気づいたとしたら、悲劇は起こらなかっただろうからである。この場合、オイディプスの(文脈での)信念内容の構成における固有名「イオカステ」の働きは、「イオカステ=オイディプスの母親」を承知している者の文脈におけるその固有名の働きとは異なっているだろう。しかし、その働きの違いは正確にはどのようなものであり、どこから生ずるのだろうか? そしてその違いは、オイディプスは結局何を信じているのか、という問いにどのような答えを与えることができるのだろうか? 以上のような問いが、TSRの解決すべき言語の文脈依存性の問題(の一部)である。
われわれが普通に期待するところによれば、意味論は、ある文脈において言明をなすために使用された言葉の意味からその言明の意味を特定化するための、一般的な手段を提供できなければならないだろう。しかし、このような一般的手続きを提供する「一つの巨大な汎用スーパーマシーン」([伊藤
1997b] p.74)としての意味論に対して、TSRは懐疑的である。なぜなら、そのような意味論の完成をまさに文脈依存性が阻むからである。しかし、この文脈依存性は、実は「・・・これまで考えられてきたものよりも、一段ラディカルなもので[あり]・・・そのため、この依存性は、普通の意味論ではとらえられない」([伊藤
1998] p.1)ものなのである。とすれば伊藤にとっての意味論とは何なのか。伊藤はこう述べる。「それゆえ私が意味論と言っているときには、個々の具体的な言明----例えば、同一性言明や単称存在言明や一人称言明----にたいしてそれが何を意味するのか、できるだけわれわれの言語的直観に近いところで、できるだけ統一的に理解できるようにしようとする営み以上ではない」([伊藤
1999] p.1)。それゆえTSRがこの<控えめな>企てを反実在論的な指示/真理概念の導入によって果たそうとするとき、伊藤が念頭に置いているのは、実在論的な意味論に対する一種の<補完>、もしくは<部分的修正>なのかもしれない。「だから、検証主義的な意味論が必要だと私がいっているときには、いま採り上げたような言明の意味を我々の直観に近いところで理解しようとすれば、実在論的な真理概念に基づく意味概念は不適切だということである」([伊藤
1999] p.1)。
この<控えめな>態度にTSRがとどまれるのかどうかも興味あるところだが、しかしとりあえず今は、意味論に対する以上のような伊藤のスタンスを確認した上で、TSRの戦略を次のように図式化しておこう。
(S) 言語の根元的現象としての文脈依存性 → 真理条件的意味論の不十分さ → 元凶としての実在論的指示概念 → 検証主義的指示概念(浅い指示:TSR)による解決 → (部分的に実現される?)検証主義的意味論に向けて
さて、TSRから見ると文脈依存性の問題は、これまでの意味論では扱いきれなかった言語の根元的現象である。それゆえTSRは、文脈依存性の問題を、意味論の根本的変革なしには解決しえない重い課題として真正面から引き受けることになる。その課題は、TSRにとって、真理条件的意味論から検証主義的意味論への転換によって果たされる。というのは、TSRは、文脈依存性を<「全能の神とすべてを知っている意味論屋」([伊藤 1998] p.6)ではありえない普通の発話者の普通の発話状況に由来するもの>と見るからである。つまり、言葉とその指示対象との結びつきに関する意味論的な事実をあらかじめすべて知っているはずのない普通の発話者の状況は、最初から、意味論的な事実をフルに使って言明の意味を与える真理条件的意味論によっては十全には捉えられないものなのである。真理条件的意味論によって与えられる意味内容は、このような<不完全発話者>にとっては「目が粗すぎ」たり、「基準が強すぎ」たり、要するに「オレはそんなこと言ってないよ」と不平を言いたくなる代物である。TSRは、そのような真理条件的意味論の元凶を実在論的な指示概念という前提にあると見ている。それゆえ、TSRの課題は、反実在論的な指示概念の諸相を明確化し、それをベースに反実在論的な意味特定の統一的な手続きを確定し、さらにそれによって各文脈において、われわれの直観に見合った内容の「オレが本当に言いたかったこと」を与えられるようにすることである。その際、たとえ問題がそれぞれの文脈ごとにデリケートな扱いを要求するものだとしても、なぜそれらが同じように「弱められた指示概念」で説明されうるのかが説得的な仕方で示されねばならないだろう。
「確かに、真理条件的意味論は、真に意味論を必要とする場面で機能しなくなる。それは例えば、命題的態度を構成する信念文であり、単称存在言明であり、同一性言明である。そして、先ほど示した「私」や「今」を含む言明であり、隠喩を含んだ言明である。これらの言明は日常の生活で不断に使用されていながら、それらの言明によって何が考えられているのか判然としないのである。」([伊藤 1997b] p.71)
「意味論に反実在論の精神を反映させるには、・・・まず、検証主義を支えている反実在論的な存在論を真理概念ばかりではなく、指示論の中にも生かすことである。そして指示概念そのものに検証主義的な柔軟さを与える必要があるだろう。つまり意味の状況依存性をもっときめこまかく把握できるようにするのである。それができれば、ダメットがフレーゲから引き継いだ意義(Sinn)なる概念を捨てることができるであろう。」([伊藤 1997b] p.73)
したがって、TSRの現時点での評価は、以下の項目にわたってなされるべきだと思われる。
(a) TSRが主張するような文脈依存性の問題は本当にあるのか? 真理条件的もしくは実在論的な意味論によってはそれがうまく捉えられていない、という直観の方が放棄される(explained
away)べきだということはないのか?(TSRの問題提起性)
(b) TSRを用いることによって、<不完全発話者>の主張内容、信念内容を適切に捉えることができたか? また、適切な一般性のレベルでそれらの内容を定式化する方法を提供できたか?(TSRの十分性)
(c) TSRを用いることによってしか、<不完全発話者>の主張内容、信念内容を適切に捉えることはできない、ということは示したか?(TSRの必要性)
(d) TSRは、文脈依存性のすべての問題にこたえることができるか? というのも、<不完全発話者>の状況、すなわち発話者が意味論的な事実に対して無知である<程度>、<様態>には無数のあり方がある([伊藤
1999] p.3)だろうからである。(TSRの外延的十全性)
(e) 仮にグランド・セオリーとしての検証主義的意味論が可能だとしたら、TSRはその完成にとってどの程度貢献しえたか? あるいはTSRは、そのような検証主義的意味論の実現をどれくらい現実味あるものとなしえたか?(TSRの貢献性)
さて以上の評価項目を心に掛けながら、以下では、まずTSRの一般的な構造を素描し(2節)、ついでTSRが取り上げている具体的な文脈依存性の現象のうち、埋設文における固有名の指示、および同一性言明の問題(3節)、人称代名詞「私」の指示の問題(4節)、単称存在言明の問題(5節)を順に検討することにしよう。
2. TSRの一般的構造
議論の見通しをよくするために、TSRに特徴的な概念装置とTSRが擁護する意味論的原則をあらかじめ見ておこう。TSRが実在論的な「強い」指示概念に代えて持ち出すのが「浅い」指示という概念であり、それらはその相対的な強弱のゆえに互いに「強い/弱い」とされるが、しかしもちろんそれらが固有の特徴づけを欠いているというわけではない。さらにこの<強/弱>は、指示だけではなく、いわば水平方向に記述および概念にまで拡張され、「浅い記述」や「浅い浅い記述」といった分析装置を提供するだけでなく、それらと相関的に「弱い同一性」や「弱い同定」といったことも語られたりする(Cf.[伊藤
1998, 1999])。しかしここではとりあえず、指示に関してその基本的な構造を押さえておこう。指示の浅さは、TSRにおいてこれまで3段階にわたって区別されてきた。
1. 浅い指示:対象の同一性を援用することのない指示
2. 浅い浅い指示:対象の現前を援用することのない指示
3. 浅い浅い浅い指示:対象の存在を援用することのない指示
(Cf.[伊藤 1997a] p.24)
ここで、「・・・を援用することのない」という意味は、その指示対象に関して「それはどれ(誰)か?」と問われたときに、発話者がそれに答えることのできない場合(つまり無知)の三つの様態を示している。すなわち「浅い指示」では、発話者は二つの固有名によって指示される対象が同一であるかどうかを知らない。「浅い浅い指示」では、(例えば「私」の)発話者はその指示対象(自分)がいつどこに存在する誰であるかを知らない。また「浅い浅い浅い指示」では、発話者は指示対象(例えばペーパーカンパニー「世界統一通商産業」)が現実に存在するかどうかを知らない。
浅い指示を行う者が指示対象に関してこのように無知であらねばならないのかどうか、つまり、問題の知識を所有している者には浅い指示を行うことができないのかどうか、ということは微妙である。浅い指示しかできない者が相対的に<より深い>指示を行うことができないのははっきりしているが、その逆が可能であるかどうかは明言されていない。深い指示を行える者は、文脈によっては浅い指示を行うこともできるのかもしれない。あるいはそれは可能であるどころか、深い指示が実現されているときには、相対的に<より浅い>指示が常にすでに同時に行われているのだ、ということなのかもしれない。ここで早くも<浅さ>と<深さ>の整合性に関して暗い影が忍び寄ってくるように思われるが、ともあれ指示の浅さは、次の引用文にあるように、まずは「指示対象に関するある種の知識を<必要とせずに>指示可能」として理解されるべきであろう。
「・・・ある具体的な時点を年月日や時刻でしめす表現を、その時点を指示する「固有名」と呼ぶことにしよう。・・・これに対して、その当の時点をなんらかの記述句を用いて指示している人は、その日が西暦何年何月何日であるか、必ずしも知っている必要はない。・・・ところが、「いま」あるいは「今日」という指標詞を用いてその時点を特定している場合には、・・・さらになんらかの記述句を用いてその時点を特定できる必要さえない。このような非対称性から、記述句を用いた直示的な指示は、固有名が指示している対象を「浅く」指示し、「いま」のような指標詞による指示は、その同一の対象を「浅く浅く」指示していると呼ぼう」([伊藤 1996] pp.18f.)
さらにTSRは、いくつかの意味論的原理を採用する。
単純原理-1: いかなる言明(例えば「フォスフォラスはヘスペラスより美しい」)も、それ単独で主張されようと、態度報告文(例えば信念文)中の埋設文として主張されようと、主張内容は同一である。(Cf. [伊藤 1995a] p.2)
単純原理-2: いかなる場合にも、信念状態は、信念言明(信念主体による信念表明)によって表現されている命題、すなわち信念内容そのものである(Cf. [伊藤1996] p.5)
素朴原理: 固有名の機能は、もっぱらその担い手である個体を指示するところにある。([伊藤 1995a] p.2)
指示対象非存在公理: 単称指示表現が指示機能を果たすためには、指示対象は存在していなくとも構わない。(Cf. [伊藤1997a] p.13)
単純原理-1、および素朴原理は、それぞれ最近の脱フレーゲ的意味論が支持する「意味論的無垢(semantic innocence)」および「直接指示(direct reference)」の原理に相当するが、TSRはそうした意味論とそれらを共有するものの、主張内容としての単称命題を認めない点でそれらと対立する。さらに単純原理-2は、信念内容と信念状態を分離する単称命題支持派の二層構造戦略に対する拒否として、また指示対象非存在公理は、実在論的指示概念に対する真正面からの攻撃としてTSRより提起されたものである。
3. 固有名の指示、および同一性言明におけるTSR
3-1: TSRの最初の課題はいわゆるフレーゲ・パズルである。[伊藤 1995a]は、単称命題を認める立場に立つ3人の論者、N.サモン、M.リチャード、M.クリミンスによるこの問題のアプローチを順次検討した後で、それらに対する不満を表明し、TSRによる解決を提示する。フォスフォラス(明けの明星)とヘスペラス(宵の明星)が同一の天体(金星)であることを知らない人物、次郎が(3)のような主張をすることはありうるだろう。そのときの次郎の信念は、ごく素直に(4)によって彼に帰属されるだろう。
(3) フォスフォラスはヘスペラスよりも美しい
(4) 次郎は、フォスフォラスはヘスペラスよりも美しいと信じている
問題は、(3)の主張内容を素朴原理から導かれる単称命題だとすると、次郎は、金星が金星より美しいということ(命題<☆,☆,よりも美しい>)、つまり金星が≪それ自身よりも美しい≫という性質を持つこと、を主張していることになる点である(ここで、☆は金星)。3人の論者は基本的にはこの点を引き受けた上で、次郎がいかにしてこのような不可思議な信念を抱くことが可能なのかを(4)の分析によって示そうとする。それらはいずれも、(4)をある種の存在量化文とする分析であって、分析の道具建てや命題の構造はそれぞれにやや異なるものの、量化されているものが、荒っぽく言えば信念主体による(3)の命題の把握方法(主体と命題表現との関数(サモン)、言語表現とそのラッセル的解釈の対相互の対応関数(リチャード)、思念マップという主体の表象構造体(クリミンス))である点では共通している。[伊藤 1995a]は、彼らによる(4)の分析を省略した形で次のようにまとめている。
▲サモン: ∃x[B(次郎,<☆,☆,BMB>,x)∧(次郎は<☆,☆,BMB>をxによって把握する)]
▲リチャード: ∃x[B(次郎,<<☆,「フォスフォラス」>,<☆,「ヘスペラス」>,<BMB,「よりも美しい」>>,x)
▲クリミンス: ∃x[B(次郎,<☆,☆,BMB>,x,t)∧R(Np,x,r1)∧R(Nh,x,r2)]
----ここで、BMB=being more beautiful、また、tは時間、R(Np,x,r1)は、xという主体の思念マップの下では「フォスフォラス」という表象(Np)が単称命題<☆,☆,BMB>の1番目の存在者(☆、つまり金星)を与える、という意味である。(Cf.[伊藤
1995a]pp.20f.)----
これらの分析の要点は、<信ずる>という関係を少なくとも信念主体、信念内容、および信じ方を含めた3項以上の関係と解し、信念内容としてはラッセル的な単称命題を措定した上で、信念報告文を、「信念主体がその単称命題を把握するためのある信じ方が存在する」という内容の存在言明とみなすという点にある。これに対するTSRの不満は、基本的に次の3点である。
(ア) これらの理論は禁欲的すぎる。これらは、命題のある把握の仕方が存在すると述べるだけで、それがどのような把握の仕方であるのかを述べていない。
(イ) 次郎の(3)の主張内容を「金星は金星よりも美しい」とか、「金星はそれ自身よりも美しい」という単称命題だとするのは、直観に合わない。
(ウ) これらの理論は、結局、次郎が何を信じているのかを述べていない。
TSRがこの点で、クリミンスに関して次のように不満を述べているのは印象的である。「信念内容は何かといえば、[クリミンスによれば]それは、(5)「金星は金星よりも美しい」が表現するものであるが、(5)の最初の金星は「フォスフォラス」という表象によって、後の金星は「ヘスペラス」という表象によって表象されている・・・。信念内容と信じ方が与えられているだけであって、次郎が何を信じているかを理解することはできない」([伊藤
1995a] p.19)。しかし、信念の「内容」と「信じ方」以外に与えるべき、「何を信じているか」の答えなどというものがあるのだろうか?
TSRは一見して法外なこの要求に次のように応える。
固有名には、対象の同一性を前提しない「弱い用法」がある。固有名はここで指示代名詞のように用いられているのだ(固有名の浅い指示)、と。つまり、弱く用いられた「フォスフォラス」は、次郎が春の明け方に東の空を指して「あの天体」と直示する行為の代用なのであり、その指示対象は、そのとき指さされた対象そのものである。同様に「ヘスペラス」は彼によって秋の暮れ方に西の空に指さされたその対象であり、弱く用いられたこの二つの固有名は、二つの指示対象、金星の同一性を用いることができない。それゆえ(3)は春から秋へと仮想的に半年かかって発話された
(6) あれはあれよりも美しい
という言明の代用物なのである。では、次郎は(3)によって何を信じているのか?
★ 「(3)によって特定される次郎の信念内容は、次郎が「フォスフォラス」という固有名を用いて直示できる対象が「ヘスペラス」という固有名を用いて直示できる対象よりも美しいというものである」([伊藤 1995a] p.33)。
TSRの評価: TSRは、★を先の(ウ)に対する回答だとするのだろうか? つまり(4)の意味を★が与えると主張するのだろうか? そう言えなければ、TSRの意義はどこにあるのかということになるだろう。しかしそう言ったとしても、なお深刻な問題がいくつか残るように思われる。
まず第一に、★が一見してフレーゲ流の Sinn を持ち込まずに(素朴原理)、対象の把握の仕方を「直示」と特定し(ア)、単称命題を含んでいないとしても(イ)、この「直示」という把握様態の特定化は常に妥当なわけではないだろう。というのも、(3)は、必ずしもTSRが想定するような場面で使用されるとは限らず、ただフォスフォラスとヘスペラスをそれぞれ占星術のイカサマ本の記述と天文学雑誌の写真を通してだけ知るようになった次郎が、その同一性を知らずに確信するようになったことを発話したのかもしれないし(----ここに書かれているフォスフォラスという星は、あの写真のヘスペラスよりも美しいに違いない----)、また、その二つが星であるということすら知らずに美術教師の話の盗み聞きからそう思いこむようになった次郎が、友人に物知り顔に吹聴したのかもしれないからである(----フォスフォラスはヘスペラスよりも綺麗なんだぜ----)。いずれの場合も、それらの固有名を用いた直示なる行為はないのであるから、(4)の意味は★によっては与えられないだろう。
しかも、この事情は、歴史上の人物名や外国の都市名などの場合を考えれば明らかなように、固有名の使用に関してありふれたことである。伊藤自身が認めているように「固有名の理解にはピンからキリまであって、指示対象を特定できるものから、単に小耳にはさんだ名をそのまま復唱する程度のものまで千差万別である」([伊藤
1997a]p.19)のだから、直示なしの固有名の使用は珍しくもなんともなく、したがって、そのような<不完全発話者>の対象把握の仕方を<禁欲的>なレベルより踏み込んで特定するのは原理的に困難である。しかも、直示以外の把握の仕方をカバーする方向で(4)の意味を与えようとすれば、TSRは結局、固有名の意味論的役割を対象の指示のみとする素朴原理に違背せざるをえないであろう。それはTSRの戦略の根本的挫折である。それゆえ、TSRは先の(ア)に満足すべき一般性のレベルで答えを与えてはない、と言わざるをえない。
第二の問題は、TSRが(3)の主張内容として(単称)命題を立てることを拒否することから生ずる。★が(4)の意味を与えているなら、TSRは(3)の主張内容を★のなかに完全な姿で見出すことができなければならない(単純原理-1)。すると(3)の主張内容は、(7)「「フォスフォラス」という固有名を用いて直示できる対象は「ヘスペラス」という固有名を用いて直示できる対象よりも美しい」といったものになるだろう。しかしもちろんTSRは、さらに進んで「「フォスフォラス」という固有名を用いて直示できる対象」、および「「ヘスペラス」という固有名を用いて直示できる対象」とは何であるか、という問いに答え、これらを「金星」として与えてしまうことはできない。そうであれば、元のもくあみであろう。要するに、<浅い指示は深い指示では語れない>。それゆえ、(7)の内容が(6)「あれはあれよりも美しい」によってこそ適切に表現される、ということはTSRにとって不可避的である。しかしそうであれば、(3)のような主張の文脈依存性は、通常の意味論的な扱いどころか、そもそも意味論的な扱いそのものを困難にするほど根深いものとなるだろう。というのも、ここで出現しているのは<文脈を与えることによって初めて定まる内容>といったものではなく、<文脈から決して切り離しえない内容>というものだからである。われわれは、クリプキのピエールに関してさえ、彼の文脈から切り離して彼の信念内容そのものを語ることができる。だからこそ、なぜ(つまり、いかなる文脈においてなら)ピエールは「ロンドンは美しい」という信念と「ロンドンは美しくない」という信念同時に持つことができたのか、と問えるわけである。ところが次郎のケースでは、われわれは彼の文脈を一旦与えた後でも、彼の信念内容がなんであるかを<文脈の援用なしには>語ることができないのである。このことは、複数の人がそれぞれ異なった文脈で同じ(文ではなく)内容を主張する、ということをほぼ不可能にしてしまうだろう。それゆえ、TSRがたとえ表面上は単純原理-1を擁護したとしても、その原理は、信念報告から信念内容へ、また逆に信念内容から信念報告へと至る肝心の所で何の働きもしないだろう。というのも、文脈横断的に取り出される(3)の内容というものは存在しないがゆえに、(4)の内容から(3)の内容へ、また逆に(4)の内容から(3)の内容へと至る意味論的手続きは発動しようがないからである。TSRは主張内容としての命題を拒絶することによって、(ウ)次郎は何を言っていたのか、ということをかえって見えにくくしてしまったのではないだろうか。
最後の第三の問題は、TSRが単称命題を拒否する理由に関わっている。TSRを提起する最大の動機は、(3)のような場合には単称命題による分析がわれわれの直観に合わないということであった。それゆえ、もし単称命題による分析がわれわれの直観に受け入れやすいものになるなら、TSRはその支持基盤を大きく揺さぶられることになろう。
冒頭のオイディプスの状況に戻ろう。確かに、われわれはオイディプスの信念に関して、(2)「オイディプスは、自分の母親こそ自分にふさわしい妻だと信じていた」、というように彼の信念を報告するのをためらうであろう。それは彼にとってフェアではない、とわれわれは感ずる。しかしそれにもかかわらず、やはり、彼は自分の母親のことを妻にふさわしい女性だと思いこんでしまったのだ、とわれわれは言うであろう。だからこそわれわれは彼の運命に深い溜息をつくのだ。つまり、われわれの言語的直観には、このいわゆる<広い内容>での信念帰属を正当だとする正反対の直観もまた含まれている。キース・ジャレットの「ケルン」を変な曲だと首を傾げた私の娘は、彼女に全くあずかり知らぬことながら、私の最も気に入っているアルバムを変な曲だと評したのである。
するとなぜ(3)「フォスフォラスはヘスペラスよりも美しい」と主張することはパラドキシカルに思えるのだろうか。それは、「xはxとRの関係にある」という命題と「xはそれ自身とRの関係にある」という命題が混同されているからなのだ、とサモンは考える([Salmon
1986b] pp.261f.)。彼の例にしたがえば、≪金星よりも重い≫という単なる関係的性質と、≪それ自身よりも重い≫という反射的性質は区別されねばならない。前者は多くの巨大な物体が持つことのできる----しかし金星は持つことができない----性質であるのに対し、後者はいかなる物体も持つことができない不可能な性質である。命題を可能世界や状況の集合と考えずに、構造化されたラッセル的単称命題と考えるなら、金星に関する「それはそれよりも重い」という命題と、同じく金星に関する「それはそれ自身よりも重い」という命題は、互いに論理的に等値ではあっても異なる命題であり、人は一方を信ずることなしに他方を信ずることができる。
もしサモンの分析をわれわれが受け入れるなら、われわれは(3)の次郎に、「金星は金星よりも美しい」(<☆,☆,よりも美しい>)という間違った信念を帰属させることにはなっても、「金星はそれ自身よりも美しい」(<☆,それ自身よりも美しい>)とか「あるひとつの天体がそれ自身よりも美しい」といったわけの分からぬ信念を帰属させる必要はない。そして、後者の二つから区別される限りでの「金星は金星よりも美しい」という信念は、まさに次郎のような状況の下でわれわれがごく自然に抱いてしまう、言われて初めてそれと気づく矛盾した信念なのではなかろうか。実際、「金星は金星よりも美しい」という言語表現に関するわれわれの直観は微妙であるが、もしそれがサモンの言う関係的性質の述定命題を表すと考えるなら、それは、たまたまある仕方で知った金星を別の仕方で知った金星よりも美しいと思ってしまった人の混乱した信念内容を表している、と言ってもいいのではないか。少なくともそれを支持する直観は、オイディプスの(2)に対するのと同じ程度にはわれわれの中に見出せるように思われる。
3-2: たった今述べた点は、TSRによる同一性言明の分析に批判的な視点を提供することになるだろう。TSRはここでも、同一性言明を単称命題によって分析することに不満を唱える。
(8) フォスフォラスはヘスペラスだ
(9) フォスフォラスはマースだ
というのも、もし同一性言明の意味内容を単称命題で与えるなら、(8)と(9)はそれぞれ「金星は金星と同一である」(<☆,☆,=>)および「金星は火星と同一である」(<☆,◇,=>)ということを主張していることになるが、それらは共に「成田屋は団十郎だ」のような「世俗的用法」における同一性言明の意味を捉え損なっているからである。TSRによれば、本来、同一性言明で主張されている同一性は、ある個体がそれ自身に等しいこと(<x=x>)を述べる自己同一性でもなければ、二つの個体が等しいこと(<x=y>)を述べる多者同一性でもない。それは、「二つの異なった直示的同定手段を通じて考えられている二つの対象の同一性を主張しているのである」([伊藤
1995b] p.20)。したがって同一性言明において固有名は、<直示行為を省略した指示代名詞>の如くに用いられるという限りで、浅い指示を行っているのである。
「それ[(8)]はあくまで、「フォスフォラス」という固有名が直示的に用いられるであろう場面で「あの天体」という指示表現を通じて考えられている対象と、「ヘスペラス」という固有名詞が直示的に用いられるであろう場面で「あの天体」という指示表現を通じて考えられている対象との間の関係を主張しているのである。あくまで有限な人間の思惟においてのみ、それらは別々の対象として考えられ、それらの間の関係として同一性は主張されているのである」([伊藤
1995b] p.23)。
TSRの評価: 。-ウで指摘した問題点は、単称命題の構造に関する点を除いて繰り返すことは止め、以下ではむしろ主に、TSRが追求すべき<意味の特定方法>の角度からのTSRの評価を行うことにする。
さて、繰り返しておきたい論点とは、ここでもTSRを動機づけている単称命題分析の反直観性を、先ほどのサモン流の分析によってやわらげることができるという点である。つまり、それによれば、(8)の表す命題「金星は金星と同一である」(<☆,☆,=>)は、「金星は自己同一的である」という命題(<☆,自己同一的である>)とは異なる。前者は、たまたま金星しか持つことのできない《金星と同一である》という関係的性質を金星に帰属させているのに対し、後者はあらゆる対象が持つ《自己同一的である》という性質をたまたま金星に帰属させているのである。それゆえ、金星に関する同一性言明と自己同一性言明は構造を異ならせる二つの単称命題なのであるから、(8)は決して金星の自己同一性の主張ではないという直観によって単称命題分析を拒絶するTSRは、その根拠を揺さぶられるであろう。直観の齟齬に関して残るのは、(8)が(10)「フォスフォラスはフォスフォラスである」という主張とは異なる認識的価値を有するというフレーゲ・パズル本来の論点であるが、その相違についての説明を主張内容以外の点で提供できるなら、両者の主張内容そのものは結局「金星は金星である」というものなのだ、とする解釈にも先ほどと同様の応分の好意的直観を期待できるように思われる。要するに、単称命題分析は、意味内容を与えるという点でそう簡単に手放されるべきものではないと思われるのである。
そしてこの点は、TSRについて新たに指摘すべきことに直接かかわる。それは、TSRによる言明の意味の特定化は本来いかなる形でなされるべきか、という問題である。TSRの眼目は、<浅い指示>を用いた言明の意味を<深い指示>を用いずに与えるということであろう。したがってTSRにとって、対象言語の言明の意味をそれより表現力の強いメタ言語を用いた翻訳によって与える道は、本来閉ざされているはずである。なぜならメタ言語による翻訳は、<深い指示>を用いた、対象言語の述べ直しを不可避的に含むからである。すると、TSRは、従来の翻訳型の意味論ではない別の形の意味論がいかにして与えられるのか、という一般的問題にもある程度答えていなければならないことになろう。確かに、翻訳型の意味論の持つ限界に対してTSRは自覚的である(Cf.
[伊藤 1997b] pp.69f.)。しかし、それはなお翻訳モデルの限界を指摘したにとどまっているに過ぎず、具体的に<どのような種類の事実を><どのような仕方で>与えれば翻訳的ではない意味の特定化をしたことになるのか、ということをTSRは明確にしていない。もしTSRが真理条件的意味論から検証主義的意味論への転換を視野の先に入れているのならば、ひょっとしてTSRによる意味の特定化は、言明の主張を可能とするような様々な条件の特定化によって果たされるのかもしれない。そしていままでTSRが現に与えてきた分析はそのような主張可能性条件の分析なのだ、とTSRは主張するのかもしれない。しかし、TSRが一つの(部分的?)意味論として自らを提示するなら、意味内容としての命題を拒絶する以上、意味の特定化の必要十分条件を自前の一般的な仕方で明示し、これまでのTSRによる分析が(部分的にもせよ)それに合致するということを示さねばならない。要するに、これまでのところTSRに欠けているのは、浅い指示という概念による分析がどのような仕方で意味の特定化を行っているのか、ということについての意味論としての明確化なのである。
例えばこの点についての曖昧さは、TSRが同一性言明の主張内容として(単称)命題を拒否しながら、なおも、同一性言明が主張される場合の特殊な前提(その同一性はたいていそこで初めて見出されたものとして主張される)を同一性言明の<主張内容そのもの>であるかのように提示している点に端的に現れている。TSRにとって浅い指示という指示の様態は同一性言明の主張条件の一つにすぎないにもかかわらず、浅い指示は素朴原理の下で主張内容を与えるという任務をも暗に引き受けてしまうので、TSRは同一性を、指示された対象間の特殊な関係として表現せざるをえなくなってしまうのである。つまり、そこで主張されている同一性は結局「・・・二つの対象の同一性」であり、「それら[別々の対象]の間の関係としての同一性」([伊藤
1995b] p.20, 23)であると言いながら、TSRは、(8)に関する<x=x>のような分析も、また、「∃x∃y(x=フォスフォラス & y=ヘスペラス & x=y)」のような分析も同一性の内容解釈のゆえに拒絶する。それはあたかも、同一性言明の主張内容として、TSRはこれらの分析では捉えられない特殊な同一性を主張しているかのような印象を与える。これはTSRの主張をはなはだ見通しの悪い「哲学的」なものにしている。指示の浅さは、それを用いた主張内容に、深い指示によるのとは別の個体や属性を持ち込むわけではないはずである。むしろ指示の浅さは、ある種の言明が主張される際の状況的前提の説明(の一部)を構成するにすぎないのではないか。そしてTSRは、<哲学的に深い分析>などへと踏み迷わずに、言明の主張条件の意味論的分析に<浅く>とどまるべきなのではないか。
しかしこのように考えるなら、TSRが指示の浅さとして主張していることは、反実在論的な指示概念なのではなく、むしろ、実在論的な指示や主張の前提条件にすぎないのではないか、というこれまでとは逆の疑いが濃厚になってくる。というのも浅い指示の意味機能が指示対象を意味内容に持ち込むだけであるなら(素朴原理)、対象の与えられ方の深浅の違いが、意味内容の違いをもたらすはずはないからである。すると、浅い指示が解明するはずの言明の主張条件は、意味内容としての単称命題に取って変わるような反実在論的もしくは検証主義的な意味の特定化を構成するものではなく、むしろ、ある言語共同体においてそれが満たされるなら<深い指示>を<すでに行ったことになってしまう>ような実在論的な指示の前提条件であって、その解明が、翻訳型でない意味論として実在論的な意味論の一部に組み込まれるのではなかろうか。もしそうであるなら、TSRは単称命題を受け入れることによって、反実在論的な意味特定の必要十分条件を明示化するなどという法外な重荷を背負わずにすむであろう。翻訳型でない意味論は、何もダメットのような検証主義的意味論の専売特許ではないのである。例えば、カプランによる指標詞「私」の分析を思い出してみよう。そこで取り出される「私」の意味(性格
character)は、この語を含む文の翻訳の一部として、つまりそのつどの文脈における「私」の指示対象として与えられるわけではく、命題内容(content)を確定する上でのこの語の使用条件の解明によって与えられるが、もちろんだからといってそこに反実在論的な指示概念が働いているわけではない(Cf.
[Kaplan 1989] pp.520f.)。同様に、固有名の指示代名詞的用法というTSRの尊重すべき着想も、ドネランが取り出した確定記述句の指示的用法(referencial
use)がそうであるように、実在論的な意味論の枠内にこそ収まるべきものなのではなかろうか。
4. 「私」の浅い浅い指示
TSRが指標詞「いま」や「今日」をどのような意味で浅い浅い指示の遂行と見なしているかはすでに述べた。「私」についてはこう述べられている。「「私」が対象を指示するためには、その対象が誰であるかまったく知る必要がないのである。・・・すなわち、複数の「私」によって同一の対象が指示されているかどうか知る必要がないだけではない。そもそも個々の「私」に於いてさえ、それが誰(どれ)であるか知る必要はないのである」([伊藤
1996] p.23)。
(11) 私が『資本論』を書いた
(12) 私はカール・マルクスだ
さて、ノイローゼのために(12)を信じるようになったタールが(11)を主張したとき、その主張内容は、カール・マルクスその人が主張する(11)と何が同じで何が違うのだろうか。信念内容と信念状態の二層構造説をとる多くの論者は、二人の信念内容は(11)の表現する命題によって与えられるがゆえに異なるが、信念状態は(11)の文そのものによって決定されるので同一だと解釈する。
これに対するTSRの不満は、信念状態を文そのものによって決定されるとするのは肌理が細かすぎる、というものである。一般に、文中の指示表現を別のものに置き換えた場合でも信念状態は同一であると言えるような場合(「私は彼女が好きだ」と「私は彼の妹が好きだ」)を、二層構造説は説明できないだろう。それゆえTSRは、タールとカールの信念状態の同一性を、信念言明に用いられた文の同一性以外のところに求めなければならない。
ここでTSRを導くのは先に挙げた単純原理-2である。それによれば、信念状態とは信念言明(信念主体による信念表明)によって表現されている命題、すなわち信念内容そのものである。したがって、TSRがこれまでの議論にもかかわらずいかにして<信念内容としての命題>をあっさりと認めることができるのか、という疑念はともかく、これによってTSRの取りうる選択肢は、タールの(11)とカール(11)の中に同一の命題を見出すことだけとなる。これは、(11)のいかなる発話にも同一の命題が含まれている、と見なすことに等しい。
そこで、信念内容と、主体にとっての信念内容の現れ方・実現の仕方、つまり実質内容を区別でき、その実質内容から「私」の指示対象が<消去>されていることを示すことができるなら、信念内容の構造的一部としての実質内容が(11)のいかなる発話に関しても同一である、ということを確保してやることができるだろう。これがTSRのとった解決策であり、それを可能にしたのは、「私」の浅い浅い指示であった。
「・・・「私」を用いた言明によって表現されている信念内容のうちには、当人には見ることのできない部分がある。私は私を見ることはできない。「私」はこの語の発語者を浅く浅く指示するという規定は、「私」の指示対象が、当人にとって「盲点」であることを物語っている」([伊藤
1996] pp.38f.)
「・・・盲点が存在する分だけ、当人の信念内容の実現が簡素化され、この簡素化された信念内容が実質内容となる。そして当人にはこれしか与えられていない」([伊藤
1996] p.42)
TSRの評価: 「私」の指示が浅い浅いレベルのものであるゆえに、それを用いた信念内容からはその指示対象が盲点として<消去>される、という話はいささか「哲学的(?)」すぎて意味論的分析としてはかえって不信感を招く。要するに、信念内容と実質内容の相違は以下の違いであろう(「WR(φ,ψ)」は、φがψを書いた、と読む)。
信念内容: <WR(●,『資本論』)>、もしくは<WR(■,『資本論』)>
実質内容: <WR( ,『資本論』)>
そうであるとすれば確かに、信念状態に対応する実質内容は文ではなく命題によって与えられ、指示表現の交換によって損なわれない同一性も確保されるが、TSRは単純原理-2を擁護する限り、不完全命題である実質内容を信念内容そのものであると主張せざるをえなくなる。しかし、明らかに実質内容は信念内容の一部なのだから、両者は同一ではありえない。「信念内容には実質内容をはみだす部分がある」([伊藤
1996] p.43)からである。
しかしこの不整合よりも、問題とすべき3つの点がある。第一は、信念状態が文によって個別化されるとする場合に生ずる、信念状態と信念内容の乖離は、「私」を用いた言明に限らず<不完全発話者>のありふれた状況でいくらでも生ずる、ということである。それゆえ、そのような一般的状況に対処するのに、「私」の浅い浅い指示にだけ固有の盲点化による<消去>という戦略は、TSRの解決能力の一般性を疑わしく思わせる。要するに信念状態の同一性を確保するのに、常に、「私」の指示が浅い浅いものだからがゆえに不完全命題としての同一の実質内容が析出される、とするわけにはいかないであろう。現にTSRは、「この液体の化学組成はH2Oだ」という太郎の地球上でと双生地球上での二つ言明が太郎の同一の信念状態を表現している、という直観を擁護するために、用いられた文の同一性ではなく、「この液体」が地球上のミズと双生地球上のメズの両者をその外延に含む「浅い記述句」だという解釈に訴える。それによって太郎の水の弁別能力に相対的に形成された信念状態は、いずれの文脈でも同一の太郎の信念内容によって与えられることになるが、それは、太郎の発話「この液体の化学組成はH2Oだ」の実質内容がいずれの文脈においても同一の「ミズおよびメズの化学組成はH2Oだ」だからである([伊藤
1998] pp.5f.)。だがしかしその実質内容は、もちろん、太郎の信念内容から何かを<消去した>残りの命題部分だというわけではない。一般に、実質内容(信念状態)の同一性が(それの産出する)行動の同一性を説明するためのものであるなら、実質内容の特定化は、命題内容の部分構造を取り出すことによって果たされるという保証はないだろう。それどころかTSRは、そのような実質内容の特定化が一般に可能である、ということすらまだ示していないのである。
第二の問題は、このような実質内容を、心的状態に対応するものとして一般的に想定することの有効性である。同一の行動を説明するための同一の実質内容の存在は、確かに、「狭い内容と広い内容の中間あたりにあるはずの、medium
content」([伊藤 1998] p.10)を与えてくれるという点で重宝かもしれない。しかし、このような不完全命題、もしくは命題の部分構造がいかに他の命題的態度と因果的に関連して行為を産出するのか ということについての認知的ストーリーが語られなければ、実質内容は心の哲学/科学にとってあまり有難みはないだろう。またそれだけではなくTSRは、実質内容の特定の際にも、語るべき認知的ストーリーを持っていなければならない。というのもTSRによれば、実質内容は、生体がもつ認識能力に即応し、その能力に応じて生体がもつ行動への傾向性によって特定されるべきだからである(Cf.[伊藤
1998] p.10)。それゆえ、認知理論によるこのような補完が不可能だとは言わないが、それが与えられない限りTSRは、浅い浅い指示の意味論を十分に与えることはできないのである。
さて最後の問題は、節で述べた指示の<浅さ>と<深さ>相互の関係に関する。一体、浅い指示と深い指示は同時には両立不可能なのか、それとも深い指示は浅い指示をその一部として含むのか? この一見してあまりに些末なことをあえて問うのは、もしTSRがこれに対してアド・ホックな答えしか与えられないとすれば、それは、TSRが意味論の周辺の薮を叩く哲学的な分析ではあっても一つの構造化された指示の理論ではない、ということを示す不吉な証拠となるかもしれないからである。つまりTSRは、<不完全発話者>のもつ様々な問題とその哲学的処方に、「浅い指示」というレッテルを貼ったにすぎないかもしれないのである。例えば、固有名「フォスフォラス」と「ヘスペラス」が同じ金星を名指していることを知っている(深い指示を行える)者が、それらを浅い指示で使えるのだろうか。したがってまた、「フォスフォラスはヘスペラスである」という同一性言明を浅い指示のレベルで行えるのだろうか。ここでは二つの指示様態は相互排除的であるように思われる。ところが他方、自分が誰かを承知し複数の「私」の発話者から自分を識別できる者が、同時に、<私>の消去された実質内容を主張している(浅い指示を行っている)ということは自明であろう。ここでは深い指示が浅い指示を含むことは必然的であるように思われる。TSRはこの種の問題に対して、反実在論的指示概念から導かれる統一的な答えを与えることができるのだろうか?
5. 単称存在言明:指示対象の存在しない指示(虚示)
さて最後に、TSRの提起する第三の弱められた指示、浅い浅い浅い指示を簡単に考察することによって本稿の暫定的なTSR評価を終えることにしよう。この指示様態は単称存在言明に関係する。そしてこの指示様態にまで到達することによって、TSRは、全面的な反実在論的意味論の構築へとこの先ジャンプするのか否か、という最終的な決断の局面を迎えたように思われる。
(13) サンタクロースは存在しない
(14) 世界統一通商産業は存在しない
(15) 橋本龍太郎は存在する
単称存在言明は、その肯定形にせよ否定形にせよどんな意味論的分析にも抵抗して居心地の悪さを残してしまう、という点では従来から悪名高いものである。その居心地の悪さは、TSRによれば、単称存在言明の理解に強い実在論的な指示概念が読み込まれてしまうからである。例えば、固有名は常にその指示対象の割り当てを必要条件とする、という意味論的原則が現に妥当ならば、ペーパーカンパニーでしかない「世界統一通商産業」は実は固有名ではなかろうから、それを偽装された確定記述だと解釈し、否定形の真なる単称存在言明(14)を「かくかくしかじかであるような会社は実は存在しない」という主旨の経験的主張だと見なすのは自然である。しかしさらに、指示対象が存在するというだけで、その固有名は確定記述ではないと言えるのか。むしろ「ホメロスは存在する」が真であっても、その意味は「これこれの作品群を生み出したただ一人のギリシャ詩人が存在する」というものであるように、実は固有名はすべて何らかの確定記述に他ならないのではないか。しかしこの解釈は、(15)の「橋本龍太郎」がいかなる確定記述の束にも還元されそうにない、という固有名に特有の別の直観と衝突しなければならない。そこで、いかなる固有名も確定記述には還元できずあくまで固有名なのだとするならば、先の原則の言うところに従い、今度は、(13)の「サンタクロース」の住まう世界をどこかにあつらえてやらなければならない。さもなければ、真なる単称存在言明は常に同語反復にすぎず、偽なるそれは常に自己矛盾にすぎないということになるだろう。しかし、存在世界を二重化させても、ペーパーカンパニーの存在を否定する(14)に、((13)とは異なる)それ固有の経験的内容を与えることは無理であるように思われる。では(14)の経験的内容を救うために、(14)を、固有名「世界統一通商産業」についての主張と見なすのはどうか。つまり同様に(13)も、虚構世界に存在するサンタクロースではなく、現実世界における固有名「サンタクロース」についての意味論的事実を述べたメタ言明と見なすのである。しかし、もし仮にメタ言明と見なすことができないような単称存在言明が存在するなら、その分析もまた満足のいくものとはならないだろう。
というわけで、TSRは次の3つの直観を擁護する。
(α) 単称存在言明に登場する固有名は「単称性(singularity)」をもつ
(β) 単称存在言明は経験的主張内容をもち、同語反復でも矛盾言明でもない
(γ) 単称存在言明に登場する固有名についてでなく、<それ>について公共的に語りうる
つまりTSRの不満は、単称存在言明の分析に関する従来の3つの提案、記述説、二重存在説、メタ言明説のいずれもが、上の3つの直観を同時に満足させることはできないというところにある。というのも、記述説は(α)に、二重存在説は(β)に、メタ言明説は(γ)に、それぞれ真っ向から対立するからである。
ここでTSRのとる戦略は、先に紹介した指示対象非存在公理である。それによれば、単称指示表現が指示機能を果たすためには、指示対象は存在していなくとも構わない(Cf.
[伊藤 1997a] p.13)。そして、指示対象の存在を前提していない指示が行われるとき、その指示は浅く浅く浅く対象を指示する。すなわちその指示表現の使用者は、対象が存在するということに関して無知であるが、そのことは指示の遂行を妨げない。そのような指示、「虚示こそが指示のもっともプリミティブな形態なのである。・・・虚示という指示の原初形態は、複数の人間が一つの対象について語り合うところに成立する」(
[伊藤 1997a] p.24)。
かくして、浅い浅い浅い指示、つまり虚示を認めることによってTSRは、単称存在言明に関して反実在論的な分析を与えることに一応成功する。つまりTSRによれば、単称存在言明では、固有名は(α)固有名として用いられているが、(β)その指示対象の存在は前提されていない(指示対象非存在公理)がゆえにその主張内容は経験的であり、(γ)固有名の同一性がその指示の同一性を保証することになる。
TSRの評価: まず初めに、TSRによるメタ言明説の扱いに関して若干の疑念を表明しておきたい。ここでTSRに対して十分な対抗分析を提示するだけの準備はないが、単称存在言明の問題はメタ言明説を洗練化させることによって直観的にも満足のいく解決が与えられるのではないか、というのが私の予想である。一つだけ肝心な点を述べておけば、TSRによってメタ言明説の最大のネックとして指摘された「メタ言明と見なすことのできないような単称存在言明」は、むしろ、メタ言明説が扱う必要のないタイプの言明なのではないか、ということである。例えば、TSRによるその具体例、逃げ水を指さして発話される「あれは存在する」、もしくはホログラフィーで出現した花瓶を指さして言われる「これは存在しない」といった指示代名詞を用いた単称存在言明は、対象の存在を前提していないがゆえに「絶対的な意味での存在」([伊藤
1997a] p.34)を初めて主張するような言明、つまりTSRが問題としたタイプの単称存在言明ではなかろう。むしろそれは、「太郎はここにいる」のような、対象の絶対的な存在をあらかじめ前提したうえでその具体的なあり方を主張するようなタイプの言明に類比的だと考えられる。それゆえ例えば、逃げ水の場合の「これは存在する」は、その《水の見え姿》の存在を前提した上でその存在様態に言及する言明、つまり「この《水の見え姿》を与えるような本物の水がここに存在する」という主張だ、と解する分析も可能であろう。いずれにせよ、このタイプの単称存在言明の存在を根拠としたTSRのメタ言明説批判は、いまだ不十分と言ってよいと思われる。
しかし、TSRにとって最大の問題は、ここでTSRは実在論的意味論の補完にとどまるのか、それとも全面的な反実在論的意味論として自らを完成させるのか、という岐路に立たされているということである。というのもこれまでのTSRの分析は、反実在論的な指示概念の提示といっても、実際は、実在論的な指示がいくつかの文脈では<非常に弱い条件>の下でも行われてしまうという側面を解明することであった。したがってそれは、実在論的指示を反実在論的な指示で置き換えることではなく、実は、実在論的な指示の存在を前提し、その一般的な成立と有効性を認めて初めて可能となるその注釈を行っていたのである。それは一言で言えば、TSRが正面から否定した指示対象存在公理、つまり「単称指示表現が機能を果たすためには指示対象は存在していなくてはならない」という公理に対する部分的な注釈であった。それは否定的な注釈ではあってもなお注釈にすぎず、そのベクトルは、依然として指示対象の存在から指示表現の使用へと向かっていたのである。それゆえこの段階においては、反実在論的指示というTSRの誇大広告に対して、なお、虚示ですら最終的には実在論的指示に概念的に依存する、と反論することが可能である。というのも、対象が存在しなくともそれをわれわれが虚示しうるのは、対象が現に存在するような指示がきちんと機能しているからであって、この点で実在論的指示概念の方が概念的に優先するのだ、と主張する余地が十分残されているからである。TSRが自ら言うように虚示は人々の固有名の使用実践にその指示の同一性の最終根拠を仰ぐしかないのだとすれば、その固有名の使用実践を支えているのは、対象に実際に届く指示、つまり実在論的指示という概念装置の日常世界における成功であろう。それゆえ虚示はこの意味では、頽落形態にある指示、寄生的な指示だと言っても過言ではないのである。
しかし、TSRによる指示対象存在公理の拒否は、TSRに新たな翼を与えたように思われる(TSRがそれで本当に羽ばたくかどうかは別だけれども)。つまりTSRは、その公理の拒絶によって、指示表現の使用から指示対象の存在へと向かう逆のベクトルに乗ることが可能となったのである。それはこういうことである。指示の底辺が虚示なら、指示がなされているか否かは、用いられている単称指示表現が固有名であるか虚有名(虚構における固有名)であるかには依存しない。問題は言明の真理性請求である。つまり「・・・指示対象が実在していなくとも、単称指示表現を含む言明が真理性要求の下で主張されうるならば、その単称指示表現は対象を指示している」([伊藤
1997c]p.6)。そうであるとするならば、真理性要求の下での指示表現の使用の実践がまずあらゆる対象指示を創出し、しかる後にその一部に実在論的な指示が認められるようになる、という図柄をここから描くことは可能だろう。しかも、もしここで問題の真理性が物理的もしくは科学的真理という枠から解き放たれるなら、実在論的な指示の範囲が膨張することにより、実在的対象が指示実践から次々に拡大的に創出される、ということもありうるだろう。というのも実在性は、真であると語られた対象にすべからく帰属すべきでもあろうから。要するに、<われわれの語りによる世界の生成>という反実在論的なテーゼがめでたく誕生することになる。そして事実、TSRは実在論的な真理概念を「弱める」必要性をすでに表明しているのである。「要するに「主張」という概念を弱める必要がある。それは、真理概念を多様化・相対化することでもある。文芸批評の真理、科学の真理等々というように」([伊藤
1997a] p.35)。「ハムレットは狷介でいやな奴だ」の真偽はある真理性の文脈で決着をつけることができる(Cf.[伊藤
1997a] p.33)というならば、ハムレットに対象としての存在を拒み続けるのは困難であろう。
TSRがこのような反実在論的な哲学へとさらに突き進んでいくのかどうかは分からない。しかし、「反実在論的指示というのは誇大広告だ」といった反論を抑え込むには、TSRは、全面的な反実在論的意味論の構築を実現するしかないであろう。この道を選択するならば、中途半端は許されない。その場合TSRは、反実在論的な意味の理論、反実在論的な真理論という哲学的プログラムの完成に向けて邁進する他はないであろう。
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さて、数値化こそ評価の客観性の印だという昨今の風潮におもねって(?)、TSRの評価項目に沿った採点表を以下に掲げておくことにする。私自身による採点はここでは控えるが(それをお知りになりたい方は個人的に・・・)、興味がおありの読者はどうか自らも試みて頂きたい。そしてまた、TSRについての私の評価についての採点も、お聞かせ願えれば幸いである。
なお、最後になってはなはだ恐縮だが、二度にわたって本科研費研究会に遠くから足を運んで下さった伊藤春樹氏に心からお礼を申し上げる。
(a)TSRの問題提起性−−− 点
(b)TSRの十分性−−−−− 点
(c)TSRの必要性−−−−− 点
(d)TSRの外延的十全性−− 点
(e)TSRの貢献性−−−−− 点
参照文献:
伊藤春樹、1995a:「埋設文における固有名の指示について」、『東北学院大学論集(人間・言語・情報)』第111号、東北学院大学
----、1995b:「同一性言明について」、『東北学院大学論集(人間・言語・情報)』第112号、東北学院大学
----、1996:「<私>のセマンティクス」、『東北学院大学論集(人間・言語・情報)』第114号、東北学院大学
----、1997a:「単称存在言明について」、『東北学院大学論集(人間・言語・情報)』第117号、東北学院大学
----、1997b:「意味論の変貌」、『モラリア』第4号、東北大学倫理学研究会
----、1997c:「虚構における「指示」」、『東北学院大学論集(人間・言語・情報)』第118号、東北学院大学
----、1998:「指示の浅さと記述の浅さ」、平成10年度における本科学研究費研究会(12月)において配布されたレジュメ
----、1999:「心的述語と浅い記述」、平成11年度における本科学研究費研究会(10月)において配布されたレジュメ
Crimmins, M., 1992: Talk about Belifes, MIT Press.
Kaplan, D., 1989: "Demonstratives" in J. Almog et al.(eds.),
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Richard, M.,1990: Propositional Attitudes, Cambridge U. P.
Salmon, N., 1986a: Frege's Puzzule, MIT Press.
----, 1986b: "Reflexivity", in S. Salmon & S. Soames(eds.),Propositions
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