スタンダールにおける
「ジェズイット」について
Yuichi KASUYA
[Etudes de la langue et litterature francaises, no.64,
日本フランス語フランス文学会編(1994年)に発表。 原文フランス語]
[筆者のコメント]
「ジェズイット」という言葉をめぐる問題意識は、「思想家」スタンダールの根幹にあるものだと思います。そして大変アップトゥデイトなものでもあります。1995年の日本における言葉使いをすれば「マインドコントロール」に関する問題ということにもなりうるからです。
ところで、わたしはいつも『アルマンス』の主人公オクターヴと「彼の愛する」母の、以下のような対話を思い浮かべます。
母のマリヴェール夫人が息子に「オクターヴ、お願いだから1+1は3だと言ってちょうだい」と言う。言われたオクターヴが「そりゃ大好きなお母さんが言えというのならそう言いますけど、だってお母さん、1+1は2じゃありませんか」と言おうとして母を見る。じっと見る。そして戦慄する。「お母さんの頭の中では『ほんとうに』1+1=3になっているのだ...」 オクターヴには、どうしてそんなことになるのか分からない。1+1=3が信じられるようには、彼の頭は動かない。
問題は、彼がどれだけ母を愛し、母の意に沿おうと思っても「自分の頭の中で論理をそのように流す」ことは出来ない、ということです。
こんなとき、母を憎んでいるというのなら好都合だし、変な母だがまあ悪い人間ではない、という友達的つきあいをするというのならいい。しかしオクターヴは母を「愛したい」のです。そしてそれは絶望的に不可能です...
このオクターヴの苦悩の切実さが読者諸兄にはお分かりだと思います。
『アルマンス』の提起する問題意識は社会的観点からのものというより、かなり哲学的なものであるようにわたしは思います。スタンダールの興味はもっと「論理」そのもののレベルにあったということが強調されるべきだと思うのです。
いかがでしょうか。
インターネットに載せるために、昔フランス語本文を翻訳したこの日本語版原稿を引っぱり出してみると「これは読めない!」というほどひどい日本文であるのにやっと気がつきました。***先生がこの翻訳口調はなんとかならないのかと苦言を呈しておられたのを思いだし、赤面しました。ずいぶん修正しましたが、元が翻訳なのである程度の読みづらさはご勘弁下されば幸いです。
[VERSION FRANCAISE / FRENCH VERSION / フランス語]
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[ FIN / END / 終 ]
王政復古期のフランスで、謎につつまれた、悪辣な活動を展開する「宗教党派」のエージェント
: 『赤と黒』の読者にはおなじみの「ジェズイット」(イエズス会士)のイメージである。スタンダールにおけるジェズイットという存在の重要性は、かねてから強調されつづけてきた。スタンダール研究家フランシーヌ・マリル=アルベレスは「スタンダールを一言で定義するとしたらそれは彼のジェズイットに対する嫌悪およびジェズイットについて彼が作りあげた神話である。このジェズイットの神話にこそ人生全体を通じての関心事、はてはスタンダール的倫理が継ぎ木されている」と述べている。
しかし他方、その重要性にもかかわらずスタンダールが「ジェズイット」と呼ぶ者たちの輪郭はぼやけていて定義がはっきりしないということも同じように主張されている。「平服のジェズイットjesuites
de robe courte」「修道会員 congreganistes 」「信仰の騎士達 Chevaliers de
la Foi 」など実態のよく分からない怪しげな存在・団体があったために当時の自由主義者たちの間で混乱・誤解があったのは確かだが、それにしても『赤と黒』の著者は「ジェズイット」という呼称を濫用しすぎると非難される。マリル=アルベレスは彼が「その偏見と恨みを育てるために、最初からロヨラの弟子たちではない人々を、僧侶だろうが在家だろうがジェズイットと呼んでいる。かなり皮相的に、彼は彼から行動の自由を奪う人々全てをジェズイットと呼んでいるのだ」と断定しているくらいである。
52才になってなお幼児期の嫌悪に引きずられて正確な定義を欠いた言葉を乱発する男、というようなスタンダール像を受け入れていいものだろうか。この作家は常に「ロ=ジック」(メリメによれば、スタンダールはこの語を強調するためにいつもこのように刻んで発音していたという)であることを誇り、「よい定義に対する気違いじみた愛」を終生持ち続けたと主張しているのである。
確かにこの言葉はスタンダールのテクストにおいても大部分の場合当時の宗教的党派の構成員そのものを指すのに用いられている。しかし同時に、彼等が代表しているある精神的特質がこの語に含意されているということは考えられないだろうか。イエズス会の党派に属するとは思えなくてもその特質を十分持っていると見なしうる人物にスタンダールはこの「ジェズイット」という呼称・蔑称を奉ったと考えることもまた可能ではないだろうか。言いかえればジェズイットという言葉が、少なくとも彼の「私的言語」のなかで、意外に明確に定義されている可能性を考えることができるのではないだろうか。
その定義とは、一般に受け入れ固定化した比喩的意味の「偽善的方策に訴える人」とは違う、スタンダールの言葉における個人的な意味である。われわれはスタンダールに固有の「ジェズイティスム」の意味を「明白な事実、論理的に明白な結論を『見ない』ことによって可能になるところの、論理的精神と不合理な信念との一個人内での共存」と定義できると考えるのである。
I. 十九世紀の若い貴族の運命
ポール・ヴァレリーは、スタンダールが僧侶というものは悪賢いか知能が低いかどちらかであって、中間はないと考えていたとしている。しかしわれわれは賢い僧侶というものもさらに二つに分けていたと考えたい。つまり社会に対して自らが不正であることを意識している者と、ある意味で本当に自分の正当性を「信じることができた」者とである。
スタンダールが行なっている若い貴族の三分法を見て見よう。これは小説『アルマンス』余白の書き込みノートである。
モンモランシー家(大貴族の家系)の若者には三つの道しかない。
1:ジェズイットになるか、
2: 頭の程度は自分の馬と大差なしという近衛将校になるか、
3: さもなければオクターヴのように、自分の信じるところと自分の未来に待っているものの矛盾にさいなまれて悲しみに沈むか、である。
(次の頁に)[...] 当節では自分を責めていないような男は滅多にいない。「こういう特権は不当だが、いいさ、これを利用させてもらおう」と割り切って陽気になれる若者は1828年にはいないのだ。
『アルマンス』の余白ノートに書いてあることを厳密に考えるなら、ジェズイットとは結局どういうものということになるであろうか。
まず(1)ジェズイットは(2)「知能が低い」人ではない。次にジェズイットは(3)悲しい人でもない。もし彼が未来に予想するものと彼が信奉しているものの間に矛盾があったならその若者は陽気になれないというのだから(それは「1828年には不可能」なことなのだ)、ジェズイットには内的な矛盾がないのだ。ということはジェズイットとはよい理性に恵まれていながら同時に心底からまったく偽善なしに不条理なドグマ、スタンダールの言う論理的精神にはとうてい信じられないと思われるドグマを信じている存在だということになる。「自分にとって真と思われることを真であると信じることを拒否できた」人ということになる。論理的に、そうなるはずである。
II. ライヤーヌ師、「見ようとしない」人物
スタンダール的ジェズイットの最初の姿は幼いベイル少年につけられた家庭教師ライヤーヌ師の人物のなかに見るのが妥当であろう。幼年期から青年期にかけての回想が書かれている『アンリ・ブリュラールの生涯』によれば、ライヤーヌの「ジェズイティスム」は「父をも恐れさせた」という。スタンダールによればこの家庭教師は「言葉の意味のひろがり全てにおいて卑劣な悪者」である。「これほどうるおいのない魂、まっとうなこと全てに対して敵であるような魂を持つのは難しい」「虚偽の見える目、おそろしい笑い」そして「完全なジェズイット」...
しかし彼の告発状の内容は、具体的事実に乏しいのである。蝿を引き寄せるからといってパンくずを落とすのを怒られたとか、自然の美を前にしたときの気取った嘆賞が耐えられなかったとか...
全くささいなものしかない。 アルベレスの言うように「自分の自由を束縛する者」だからということなら確かにそれはそうだが、その点に関してライヤーヌは父親シェリュバンより罪が軽いはずであるのが問題になる。ライヤーヌの権力は父の権力に依存しているのだし、第一彼の「圧政」期間、家庭教師期間は大革命下の政治的理由でわずか20ケ月しか続かなかったことが分かっている。それでもスタンダールは彼が、彼こそが「完全なジェズイット」「父以上にジェズイットだ」というのである。
『アンリ・ブリュラールの生涯』の出版計画を書いたものの中の一章のタイトルとして「ライヤーヌ圧政
(このように呼ばれるのは形態の故ではなくその有害な効果の故である)」という書き方をしていることに注目しよう。その「有害な効果」の性質とはなんであったかと考えるなら、それは「よい論理への信奉の欠如と」いうことに違いあるまい。スタンダールはライヤーヌのことを「論理の、すべてのまっとうな推論の仇敵」と言っているのだから。注意したいのは、よい論理への信奉を欠くといっても、必ずしも論理自体を欠いているというわけではないということである。明らかにライヤーヌは馬鹿ではない。スタンダールもそのように考えているからライヤーヌを「深遠な」と形容している。彼の祖父も同じである。『アンリ・ブリュラールの生涯』の中の有名なエピソードを例にあげよう。
或る日祖父がライヤーヌ師に言った。「プトレマイオス天文学などなぜこの子に教えるのですか。あなたも誤りだとご存じのはずなのに。」
(ライヤーヌは答えた)「この理論で全てが説明できますから。それに教会に公認されております。」
作家の祖父がライヤーヌの論理的精神を本当に信じていなかったなら「あなたも誤りとご存じのはず」などと言わなかったはずである。
さてライヤーヌ師がこの答えによって必ずしも相手を煙にまこうとしているとは言えないことに注意したい。本物のイエズス会士ならもっと巧妙な言葉を使ったはずだからである。ライヤーヌの反応はむしろ稚拙なものだ。『アンリ・ブリュラール』の読者はこれを誇張、カリカチュアととり、ライヤーヌの答えとされるものを架空のものとりたくなるかもしれない。このようにして人はスタンダールを、五十をこえても幼児期の印象に支配されていて悪意ある誇張をする人と見るのだ。しかしわれわれは、ライヤーヌは本当にこのように答えたか、このように答えたのだとスタンダールが信じていたかであると考える。なぜならこの答えはスタンダールの祖父が「繰り返して」いたものであることが強調されているし、またスタンダールがこの一見単に不正直なだけとしか見えない滑稽な答えについて「本気で」怒っているからである。
教会の権威はライヤーヌにおいて単なる道具、議論で相手を負かすための武器ではない。それでならば彼は「本当に」信じているわけではないことになろう。教会は彼にとっていわば論理の座そのものを占めるものとなっている。ライヤーヌの精神は狭い。そしてスタンダールは巧妙な雄弁家ではなくまさに彼のような視野の狭い人物を「完全な」ジェズイットと呼んでいるわけである。論理的精神がこのような答え、隷属的服従のしるしのような答えを本気でできるものであろうか?
教会の承認が本当に論理に優るものとして本気で信じられるほどに論理が一個人のなかにおいて窒息させられるものであろうか?
この矛盾した存在への驚き、いらだちの上にこそ、前にも見たように、スタンダール的ジェズイットの定義は基盤を置いているのである。
彼がいくらか精神の柔軟性を持っていたなら「彼はブリュラールをどうにでもできたはず」なのだということをスタンダールも認めている。しかし若きアンリの家庭教師にとってはコンフォルミスム、体裁がなによりも大事だったのである。ライヤーヌはけっしてプトレマイオスの体系に誤謬ありという指摘を「反駁」したのではない。彼のしたのは回答を拒否することである。つまりこの体系の誤謬を「見ない」「見たくない」ということを宣言したわけだ。ジェズイットという言葉と明白なことを「見ない」習性ということはよくスタンダールのテクスト内で関連づけられている。たとえば『パルムの僧院』で、捕えられたファブリスの手錠が見えないふりをするファビオ・コンチを主人公はまさしく「おかしなジェズイット
plaisant jesuite 」と呼んでいるのである。
またスタンダールはジェズイットと「ささいなこと」への意識の異常な集中ということをよく関連づけて語る。スタンダールは土地の言葉を借りながらライヤーヌの精神の狭小さを指摘している。スタンダールが彼のシャベルの扱い方を「ジェズイット特有の注意深さ」と形容するのは、おそらく無益なまでに慎重な注意、日常のルーティーンへの過剰な精神集中を指しているのであろう。つまり、暖炉の火なんか適当に掻き回しておけば十分なのに、他の全てのものを忘れ自分の前にある火以外のなにものも「見ない」ようにしてシャベルを扱う男を喚起しようとしているのである。ラテン語の勉強で「ジェズイットの僧侶の作った」蝿がミルクに溺れるところの描写という阿呆らしい主題の詩を使ったというエピソードでも「ジェズイット」と精神の狭小さの結びつきが顕著である。ジェズイットが論理的精神を持ちながら妄信に身をゆだねていられるのは、彼等が矛盾から目をそらす、それを「見ないでいる」術を心得ているからである。どうでもいいような作業、主題に過度の意識集中を行なうことがその指標のひとつではないだろうか。
III. ジェズイットの起源
ジェズイットというこの矛盾の存在の誕生にはさまざまな原因を想定することができる。しばしば政治的理由が人をジェズイティスムに追いやる。大革命以来の政治状況の目の回るような変転がフランス、ヨーロッパに多くの「転向」を生み、自分の過去を「見たくない」「見せたくない」人々をたくさん生んだからだ。しかしジェズイットはなによりも教育の産物である。スタンダールの虚構作品において、イエズス会士のもとで教育を受けた主人公たちは、そこで身につけた性格から完全には脱却できない。自分のしようとしているのが明らかな聖職売買だというのが「論理力に欠けるところのなかった」ファブリスには見えなかった。自分自身の誓いに反してリュシアンの手紙への返事を書いているシャストレール夫人は「書いても、送らなければいいんだわ」と妙な論理で自分をだまし、自分が返事しているという事実を「見まいとした」。結局彼女はこの手紙を送ってしまうのである(『リュシアン・ルーヴェン』)。
教育というものは、たとえジェズイット教育でなくても常に論理の自然な歩みを阻害する危険を持っている。典型的な教育の犠牲者を「小ジェズイットpetit
jesuite」と罵られた学生、ポール=エミール・テセールのなかに見ることができよう。『アンリ・ブリュラールの生涯』によれば、彼は丸暗記による猛勉強でアンリ・ベイルを恐れさせた同級生で、彼は数学を勉強するにしても「理解などということはさらさら頭になく、ひたすら証明の全過程を暗記していた」というのである。本番の試験の際には「その場で考えなければならない」問題が出され、アンリ・ベイルはポール=エミールと、ポール=エミール同様丸暗記ばかりしていた他の皆に対して優位を得たという。これはまさしく「本当の」頭脳の活動が、単なる学課の丸暗記に対して勝利を収めたのである。ポール=エミールが「ジェズイット」と呼ばれているのは、彼が「生きた論理を行使し、その示すところを見る」ことを学ばず、心の底から「勉強するということは学課を暗記するということだ」と信じこんでいることに起因するのである。
いまひとつ、巧妙なジェズイットが折伏のための手段を持っていることを指摘したい。それはある意味で論理そのものの欠陥と言えるようなものをあげつらうというやり方である。
スタンダールにおける数学的難問の重要性はこの観点から判断されるべきであるとわれわれは考える。「負×負がなぜ正になるか」という永遠の疑問にこだわるスタンダールをフランソワ・ミシェルのような人は非難してやまない。「理解のために言葉の下にあるものを探しにいくという基本的な努力をしていない」というのである。これに続く論議も主にスタンダールの数学理解力に関するものだった。しかし『アンリ・ブリュラールの生涯』を少しよく読めばスタンダールにとって、若きアンリの質問に対する他の人々の反応こそが数学的説明そのものと同じくらい作家にとって重要なものであることが簡単に見てとれる。教師たち、同級生たちの態度を観察することによって彼は彼等がこの公理を「本当に分かって本当に」運用しているのか、それとも分かった「ふりをしている」だけで実はイオネスコの女生徒のように覚えたことをオウム返しに言っているだけなのか見定めようと、つまり教育のワナに陥っていないか確かめようとしているのである。ベイル自身について言えば、彼はこの演算の基礎をどのように「運用」するか知っていないわけがない。そうでなければ中央学校での一等賞も、理工科学校への推薦もなかっただろう。しかしひとたび日常言語による「説明」の可能性を模索するとき彼は当惑させられるのである。この困難について「説明可能なはずである。なぜならそれは真実を導き出すから」と彼が言っていることから、彼は無邪気に、全ての真理は明快に言語によって、現実界からとられた例に準拠しながら説明されねばならないと信じている、あるいは信じようとしていることが分かる。これは明らかにいつも簡単にできることではなく、しばしば不可能なことである。しかしスタンダールとしては他人の内面を見抜くことに関心があるのだから、このような考え方を押し通そうという気になったのも無理はない。
だから、もうひとつのアポリア、「平行線が無限遠において交わる」という問題に関する記述のあと『アンリ・ブリュラールの生涯』に父親然とした調子で教えをたれる告解師が「巧妙でよきジェズイット」として現れるのは、まったく当然のことなのである。告解師は言う:「世の中には真も虚偽もない。あるのは約束ごとだけだ。おまえが社会にうまく受け入れられるような約束ごとを受け入れなさい、云々」。注目したいのは、論理そのものの持つ「欠陥」に言及していながら、この「ジェズイット」の主張は完全に合理的なものであり、論理の忠実な信奉者であっても、もしいったんそう決断しさえすれば自らの原則として採用しうるものだということだ。あるいはアンリ・ベイルがこの方針を本当にとったと考えることすら可能である。なぜならスタンダールは若いアンリに次のように結論させているからだ
: 「真であろうとなかろうと数学はわたしをグルノーブルから脱出させてくれる。」
IV. 虚構作品に現われるジェズイット
スタンダールの虚構作品の中の副次的人物たちの中の何人かがジェズイット、ジェズイット的jesuitiqueと呼ばれたり、あるいはそれとほのめかされていたりする。かれらは不自然なドグマに惑わされ、自分にとっての本当の幸福を見失ってしまった人々なのである。
『アルマンス』のなかの「ジェズイット」: ボニヴェ騎士。彼の態度は論理の完全な否定であり、ドグマと因習の盲目的遵守である。その彼に向かってドーマール夫人は「彼は『言葉とは人間に自分の考えを隠すために与えられた』という大原則を一人で見つけている」と断言している。ここでは陰険で狡猾な、それだけ「自由」で活発な精神を持っていなければならない偽善よりは、「受動的」な、硬直した偽善、とくに自分の考えを自分自身に隠してしまう、自分自身に見えなくしてしまう偽善、すなわちジェズイティスムが問題になっているとわれわれは考えるのである。彼自身が言っているように彼には「見ることができない」対象がたくさんあるのだから。
『赤と黒』のフェルヴァック元師夫人。彼女が敬神家の、つまりスタンダールの目からジェズイット党派であるところのものに所属していることは明らかである。しかしアルタミラが彼女のことを「少しジェズイティクjesuitiqueで誇張的である」女性だという言い方をするとき、この「ジェズイティク」という言葉は、ある政党への彼女の奉仕以外のものを指しているとしか考えられない。クロード・リプランディClaude
Liprandi が彼女について書いている論拠は説得的である; 自分の父が産業家であったという事実が話に出るのではないかという恐れが「元師夫人」という肩書の女性を常にさいなむなどということは、フランス王政復古下の歴史的コンテクストではありそうもないのである(ナポレオン配下の元帥たちの出自がどんなものだったか考えれば、このことは容易に理解できよう)。しかしスタンダールが元師夫人を描くのに「ジェズイティク」という言葉が必要と感じたとすれば、彼女もまた論理に反するある不自然な偏見の犠牲者であることがこの言葉によって示されていると考えるべきではないか。もはや誰も富の起源を表だってとりざたする時代ではない;
それなのに元師夫人が自分の出自を恥じているということは、恥じるというそのこと自体を誇りに思っているからに違いない。つまり彼女は、特権階級に自己同一化するために、自分が本来属している社会階級を否定しているのである。サン=シモン『回想録』の家系に関するところばかり読んでいるかわいそうな元師夫人はそこに出てくる正しい血筋とは無縁の父、有名な産業家だった自分の父のことなどは「見たくもないし」「人に見せたくもない」ことなのである。これを「見ない」ためには他のものをじっと見つめている必要があり、そのために宗教があり、道徳がある。「ぐわっと口を開けた地獄」をじっと見つめている方が彼女にとって幸せであると断言するときアルタミラは間違っていない。スタンダールは元師夫人のこの自然に反する、馬鹿馬鹿しい信念に基づいた生き方を揶揄し、滑稽化しているのである。
同じ「赤と黒」の中の、シャルコ=ド=モージロンとジュリアンの対話の場面の記述に
「ジェズイット」という言葉が現われているのは非常に興味深い。この郡長はジュリアンを家庭教師として引き抜きにやってきたのだが、ジュリアンが全く内容のない返事をするので*「この郡長は相手がもっとジェズイットなのに驚いてなにか確かなことを言わせようとしたが無駄だった」というのだ。
シャルコは、貴族の小辞deをつけて断絶した名家の名字を名のっている、ブルジョワ的地金が丸見えな人物として表現してある。eduquer
のような当時まだ好ましくないとされる言葉を使っていることがわざわざ強調してある。社会の現状を大げさな言葉で嘆いてみせる。郡長が訪問の目的をなかなか切り出さず踊り場まで来てやっと話し出したというのもおそらくシャルコは「金銭に関する話は下品だ」という感覚を持っている、あるいは持っているようにみせたかったのだと考えられる。ジュリアンへの給料の支払いも「貴族らしく」四半期ごと前払いにすることが提案されているのである。
*『赤と黒』の主人公の偽善の無償性については大阪大学へ提出した修士論文(1985)で論じた。
上の階級のなかにいる自分を感じるために、精一杯貴族の真似をし、その大義のために嘆いてみせる平民というのがシャルコの姿である。ここにもまたその出自を見まい、人にも見せまいとしている人物がいるのだ。そのシャルコが突然自分の前に、自分より「よき考え」にこり固まっている人間を見たように思った−−これがこの場面の意味だと考えられる。このときシャルコの心に起こったことを伝えるために語り手(?)はジェズイットという言葉を必要としたのである*。
*もし「ジェズイット」という語の語義がスタンダールの私的言語に属するものだとすると、この箇所でナラトロジー的観点から「この語は誰が選択したのか」を考えてみるのは、不毛と思われるだけに興味深い。
このエピソードの出てくる章のエピグラフは、先ほど見たのと同じ「言葉は人間にその考えを隠すために与えられている」という警句である。しかしその言葉は通常考えられているように
--- そしてスタンダールも普通はそのように考えているのだが --- タレイランにではなくマラグリダ神父なるイエズス会士に帰されている。この全くの虚構は、作者がこの章の真の性格を暗示する意図によるものとしか考えられない。なぜならこのマラグリダという人物、ポルトガル王の暗殺未遂事件に連座し狂人という名目で処刑されたジェズイットは全くの狂信者だからである。スタンダールがこの人物について読んだと考えられているヴォルテール『ルイ十五世の世紀概要』の記述ではマラグリダはその著作の馬鹿馬鹿しさや、75才にして牢獄の寝床を遺精で汚したという「奇跡」などで完全に滑稽化されている。くだんのエピグラフのような狡猾な外交官風の警句を吐くには全くふさわしくない人物なのである。これはどうしても、このエピグラフの言いたいことは、マラグリダのような「ジェズイット」は自然にしていれば出てくるはずの合理的な考えを「自分に対して」見えなくしてしまう、ということだと考えなければ意味をなさないではないか。
先に見た『アルマンス』のボニヴェ騎士の例でも、ドーマール夫人はこの警句を使って、相手をからかったわけなのである。
スタンダール主人公たちが、多くのジェズイット的特徴を持ちながらジェズイットと呼ばれないのは、少なくとも彼等が原則的に物事をありのままに見ようとし、また自分たちに固有の本当の幸せを見つけ出す力を秘めているからである。スタンダールの小説では常に幸福の、真の情熱の追及を描くことが主眼となっているのだ。「本当の論理学の講義をしてくれる」(『恋愛論』)のは情熱、恋愛なのである。
Copyright pour la 2e edition corrigee, Yuichi Kasuya, 1996.
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