「視野の制限」再考のための試論

Yuichi KASUYA

(金沢大学文学部論集文学科編第16号、1996)

[まえがき]

これもまたスタンダールについての論文なのですが、作家論というより主眼はもっと一般的なものなので、その要約を「理論」編の最初に置きます。『アグドの司教』論文とあわせて読んで頂ければ幸いです。

理論の核心部分については98年以降にまとまった形にしたいと思います。


Michel Crouzet は近著 Le Rouge et le Noir : Essai sur le romanesque stendhalien (PUF, 1995) において、「スタンダール小説は『視点』の理論から出発する分析の犠牲になっている」と主張し、スタンダールにナラトロジー理論を適用することの弊害を告発している(p.57)。Crouzetによれば、Jean Prevost 以来一般的となっている見方、つまりスタンダール小説が「話し、知り、見る何者かに帰せられ、すべてのデータが一つの知、一つの視線、一つの志向性、一つの意識の諸可能性の限界内に定めうるし、制限されている」というとらえ方は、ことさら近代小説にひきよせた誤った見方であり、そのようにしなければならないという意識はスタンダールにはなかった(p.58)、スタンダールのいわいる「主観的レアリスム」と呼ばれるものは形式の拒否、レシの解体、非=レシnon-recit のことであり、それは語りのモードでも、エクリチュールの方法でもない(p.59)、スタンダール的レシにおいては常に誰か語る者、生きる者、見る者がいるのだが、それは作者、登場人物あるいはその両者だったりするのであり語りの手段の純粋さ、規則性というものは存在しない(p.61)、というのである。

Crouzet の主張には明らかに言い過ぎのところがあるが(1)、根強い先入見、つまり『赤と黒』において重要なものは基本的に主人公ジュリアンの知覚するものであり他は二次的な意味しか持たないという偏見の是正に功績がある。加えてスタンダール的レシとナラトロジー理論との間にはたしかにある種の「相性の悪さ」が感じられるのでありそれに注目したのはCrouzet の卓見である。しかしわれわれはこの「相性の悪さ」の本質を Crouzet のように原則自体の欠如に還元することは短絡的すぎると考える。スタンダールに特徴的とされてきた「主観的レアリスム」realisme subjectif あるいは「視野の制限」restriction du champ 技法はより根源的なところでとらえ直すことが可能だと信ずる。本論で試みるのは、従来考えられていたよりもっと一貫した目的意識、それも非常に意味のある目的意識をもって文学的実践を行っているスタンダール像を浮かび上がらせることである。試論としての性格上、論の熟さない点が多々あることをあらかじめお詫びしておきたい。

1.ナラトロジーと物語内容の客体性

さてまずスタンダール的レシとの関連において問題になるのは、狭義のナラトロジーにとどまらず、文学的営為を作者から読者に達するひとつのコミュニケーション過程として捉える論者がおおむね採用する前提、もしくは世界の「見立て」方であると考えることから始めたい。その見立て方とは次のように要約できよう。まず語られるべきモノとしての、客体として対象化された「物語内容」「物語世界」(2)が確固とした、ひとかたまりの伝達しうるものとして存在し、それを或る主体である「語り手」 narrateur が、これまた(程度の差はあるものの)主体である「読み手」 lecteur に「伝える」(ほとんど「与える」と同義語のような感じで)、という図式である。読み手が登場人物の一人、多くの場合主人公に「同一化する」 s'identifier ということももちろん語られるが、その場合でもまず直接的所与としての物語世界が堅固に存在することが前提となっていて、同一化はそこから帰結するものに他ならない。たとえばTzvetan Todorov は幻想 fantastique を怪奇 etrange と驚異 merveilleux の間のとまどい、非決定と定義し、その戸惑いを主要登場人物と読み手はおおむね共有する、という意味で両者がs'identifierするという言い方をする(3)。この場合登場人物の知覚するもの、彼の持っている情報の総体が合理的結論を出すことを許さないのだが、登場人物、読み手がそれぞれ独自に結論の不可能性を感じるのである。読み手が「迷う」のは登場人物が迷っている迷いとは「別の」迷いである(4)。読み手と登場人物の間には常に洞察力の差、あるいは理解しようとする意志の有無に関する差がありうるわけで、読み手には結論不能であっても登場人物は何の疑いも抱かないという場合も可能だし(5)、その逆に登場人物が幻想を前にしているのに読み手にとってはそうではないという場合も当然ありうる。

上記の前提は全くもっともな前提と思われるかもしれないが、われわれはこれもたくさん可能性があるうちの一つの可能性、ひとつの見立て方であり絶対的なものではないと主張したい。平行して「読者が主体としてテクストの未規定箇所を完成させていく」という見方もまた相対化したい(6)。もっともfiction を読む、それについて語るということが最初からそういう誤謬に意識的にはまりこむことを意味するのかもしれないが、そのような営為自体をもう一つメタレベルからみることがあっていい。この見立て方の中だけでは真価を問えないような文学が存在するならば当然これを越えていくのが誠実な態度というものである。スタンダールのレシはまさにそのような文学に属するレシであると考えたい。彼においてはこの物語内容の「対象性」「客体性」と呼ぶべきものが問題になっている。つまり語り手の向こう側の作家スタンダールから見れば主人公たちは多かれ少なかれ彼の分身であり彼は自分の創造した人物と「一体化している」のだ、となんらかの意味で認めなければならないし(7)、読み手の方から見ても主人公たちとの「共感」ということがスタンダール的レシを真に読む上で決定的要因となっているのが明白なように思われるということである。エンマ・ボヴァリーという登場人物に共感できなくても小説『ボヴァリー夫人』は傑作だと評価する人は想像できるが、ジュリアン・ソレルにまったく嫌悪感しか覚えられない読者が『赤と黒』を愛するということはおよそ考えられない −−というようなことを言いたくさせるある印象をめぐって、より理論的な見地から次のような形にして問い直してみたいのである:スタンダールのレシではたしかにCrouzetの言うように視点は絶えず変動するし、読者と主人公の認識の一致ということも常になりたつわけではないのだが、それでも−−あるいは、だからこそ−−スタンダールの目的は最終的には物語内容の「伝達」ということにはなく、ときには「伝達」を犠牲にしてさえある読みの特権的瞬間における作者たる自分と主人公、そして主人公と読み手の重なり合い、生の共有を追求しているとういうことなのだと考えられないだろうか。

戯曲に関する理論的考察においてスタンダールは、観客が舞台上の人物に共感し「一体化」する体験、崇高体験を実現することを究極の目的としていた。またこのような崇高な瞬間は一戯曲のうちで限られた数の決定的場面に起こるのであり、他の場面はそれを準備するためのものなのであった(8)。この考え方、少なくともこのような考え方の傾向が小説の創作に影響を及ぼしていると考えるのはきわめて妥当なことではないだろうか。小説においても、核心的部分において読み手と主人公との一体化を成立させるためにこそスタンダールは一見無秩序に見えるほどさまざまな手段をとっているということではないだろうか。それならば、スタンダール的レシの核心をつかまえるためにはナラトロジー的見立てを越えていく契機まで視野に入れなければならないはずである。スタンダールにとっては「伝える」よりも登場人物と一体化して「感じてもらう」ことが大事だったとするなら彼のレシの読みは、読み手が物語世界から独立したままでは成立せず、その中に入り、主人公と重なることによって初めて成立することになる。このように考えるとスタンダール的レシ独特の魅力と問題とが生まれてくる事情がよりよく理解できるように思われるのである。

2.Georges Blin の「視野の制限」restriction du champ

スタンダールのレシを分析するに際してGeorges Blin が「視野の制限」 restriction du champ なる概念を援用して以来40年以上が経つ。数あるスタンダール研究書の中でも古典と目されるその著 Stendhal et les problemes du roman (Corti, 1954) の序文冒頭では「この著作を『スタンダール小説におけるレアリスムの限界と諸手段』と名付けても本質的に大事なものは何も失われなかっただろう」(p.5)と述べられており、そのスタンダールのレアリスムは「主観的レアリスム」realisme subjectif あるいは「視点のレアリスム」realisme du point de vue と呼ぶべきものの先駆なのであって、それはBlin が視野の制限と呼ぶ手法に現れているのである(p.115 sq)。

それではその「視野の制限」とはどういうものであるか。後で見るようにBlin 自身の定義はあまり厳密とは言えないのでGerard Genette を援用しよう。このナラトロジストは Discours du recit において彼の言う「パースペクティヴ」に関する問題を扱った研究の大半が、これまた彼の用語における「叙法」modeと「態」voixとを混同していると指摘している。つまり簡単に言えば「誰が見ているのか」という問題と「誰が語っているのか」という問題が混同されているというのである(p.203)。 Genetteの区別に注意して「スタンダールのレシは多く三人称の物語外世界的語り手が語っているのであるが、その語られている内容はジュリアン、ファブリスなどの主人公の見たこと、聞いたこと、知っていることに限るという制限を受けている」とすればスタンダールにおける「視野の制限」の性質を適切にとらえた記述とすることができよう。ちなみにGenetteはその中心概念の一つ焦点化focalisation の一種「内的焦点化」を、ブランの「制限された視野」に相当するものとして説き起こしているのである(p.206)。

小説において「描写を驚きに替える」 [tourner] la description en etonnement (9) ことによって描写のための描写を避けようとしたスタンダールのレシにおいて少なくとも部分的には、今述べたような「視野の制限」が「そこにある」のが確かであり疑問の余地はない。しかし「視野の制限」が認められる箇所から受ける印象が常にこの手法に与えられている定義のみに関連する効果によるものかどうか、あるいはこの手法がこれまでのとらえ方とは違う側面の機能を持っていないかどうかという問いをたててみる価値はあるように思われる。たとえば他ならぬBlinが前掲書で、未完のスタンダール小説である Lamiel を「視野の制限」技法の用いられた作品ではないとしている理由が興味深い:「女主人公の私的領域に現れる物のみがたち現れるという場面があることは確かだが、真に彼女の目から見ることにわれわれは成功しない。彼女に結晶作用を起こすことはできないので、この人物になにか冷たい、よそよそしい印象を受けるのだ」(p.175)。つまり、小説 Lamiel は形としては「視野の制限」の条件をみたしているにもかかわらず、主人公に「なんとなく共感できない」から除外する、と言っているのである。ここで定義のいいかげんさ、不完全さを云々するより、むしろこのLamielの扱いから、問題の核心が「共感」ということに関係しているのをBlinさえ感じていたということが注目に値するのである(10)。

さてBlinが「視野の制限」の実例としてあげてくるのは、『赤と黒』Le

Rouge et le noir においてジュリアンがアグドの司教、ピラール師、ラ=モール侯爵などと出会い彼らを同定するシーン、特にアグドの司教の繰り返す仕草の意味を「理解する」comprendre ところ、『パルムの僧院』La Chartreuse de Parme において戦争を知らない子供ファブリスがワーテルローの戦場をさまよう場面、特に土が跳ね上がっているのが敵の砲弾のせいであることをcomprendre するというシーンなどであり、そのいくつかにCrouzet が前掲書で批判を加えているわけである。ちなみにこれら印象的な「視野の制限」の例は多かれ少なかれ「知っている」savoir、「理解する」comprendre などの心理的動詞に関わる過程が問題になっているものであることを指摘しておきたい。日本語では「視野の制限」であるが原語restriction du champ のchamp は知識、認識の領域のことと了解し、日本語の比喩的言葉にミスリードされることのないよう注意しよう。なおGenette も視覚的なものに固有な言葉を避けて focalisation という語を採用したと言うが(p.206)、「焦点化」では、まだまだ十分視覚的であると言わねばならない。

3.「知っている」ということと「知らない」ということ

さて小説に限らずスタンダールの書いたもの全てに現れる彼の思想において顕著な特徴のひとつは、何事かを「知らない」とか「思いつかない」とかいうことがそれを「知っている」状態の、「思いつきうる」能力の単なる欠如態ではないとされていることである。つまり「知らない」「思いもよらない」「理解しない」という否定文、あるいは「忘れていた」というような否定的内容を持つ文によって示される出来事に、それらに対応する無知、未熟、うっかりぶりといった評価と同時になんらかの積極的な評価が与えられていて、むしろそちらの方に力点がかかっていると感じられる例が多いのである。たとえば初老を迎え自伝的レシを書いている作家は若い頃の無知無能による失敗談を書きながらも、後々の人生経験が若い感受性を衰弱させてしまったことを感じ、自伝執筆の現在よりはるかに強かった当時の「感じる力」を懐かしんでいる(11)。自伝執筆時にいる作者が自伝内容の世界にいるかつての自分にある「欠如」について記述しているわけである。『赤と黒』においては、レナル夫人が俗物たちの間に生活しながら彼らに対する関心が欠如した無垢な状態を保っていたことがジュリアンを情熱的に愛するための必要条件として描かれている(12)。またジュリアンがマチルドに羨望の目を向けるのは彼女のような大貴族が卑俗な感情を超越していられるという利点のためであったことも思い起こしたい(13)。社会生活上有用ではあっても魂を卑賎にするような知識を持っていること、高貴な魂の者なら考えもつかないようなことを考えつくというのは明らかに否定的評価に値することなのである。

また「忘れている」という否定的様相が積極的評価を受けている印象的な例としてヴェルジーでジュリアンと楽しく生活していたレナル夫人が、やってきた夫を見てびっくりする場面をあげておきたい。「彼女は、夫の存在などすっかり忘れていた」 elle avait oublie son existence (14)というのである。彼女は自分が別の男と結婚していることを忘れるほど−−そういう性質の−−愛の喜びに没頭していたのだ、ということを読者はこの一句で一瞬にして悟る。スタンダールは、そのとき読者は滑稽感を覚えながらも彼女に共感し「その感情を自分も味わいたいと欲する」と考えているのだろう(15)。

4.意識の対象ということ

先に述べたようにスタンダールにとって、また彼の語りにひきつけられて読む特権的読者にとって物語内容世界が客体ではなく、物語内容世界を主人公と重なって生きることが問題であるとしよう。ならば登場人物の意識において「意識の対象」になっていないものは読み手にとっても客体化された意識の対象であってはならない。ということはそれが読まれてはならないわけであり、従って書かれていてはならないということになる。たとえば先にあげた通りレナル夫人、マチルドにおいて卑俗な魂の欠如が描写されているわけだが、それならもしレナル夫人自身、マチルド自身に読者が重なり一体化することを実現しようとするケースがあるなら、そういうとき彼女たちの心に「ない」ものは書かれるはずがないではないか。

そういう制約をスタンダールが実践しているというのはきわめてありそうに思われる。そもそも意識的に自らに課すまでもなくスタンダール自身が意識したくない、従って書きたくないという対象はたくさんあった−−「意識しない」と「意識したくない」の間にある大きな差はあるが。上で指摘したとおり卑俗なことは「思いつきもしない」というような否定文で記述されるような性格を評価する彼は『アンリ・ブリュラールの生涯』においては、下劣な行為から本能的に眼をそむけてしまう性向−−「スペイン主義」(16)−−のおかげで自分はモリエールのような大喜劇作家になり損ねたと述懐している。本当はむしろそのような上品でないものをこそよく見て滑稽の材料を得なければならないわけだからである。

これも先に述べたように、一般のナラトロジーは「語り手」という主体が、必要な情報という「モノ」を「読み手」に「与える」という「みたて方」を人に思い浮かべさせる。ところでその際、伝えられるべき「必要な情報」というのは正の情報量を持つものであると言える。つまり何か伝えたいことがあるとき、紙数や時間の制限がないものとすると、いつまででも書き続け語り続けていればそれだけ多くの情報量が相手に伝わると期待することができる。これに対し、何かを「知らない」「分からない」「考えつかない」ということを伝える情報は本来負の値を持つと言えるはずである。これらは否定文を用いて正の情報にしないと伝達できない。「視野の制限」と対をなすものとしてBlin の論ずる「著者の介入」intrusion d'auteur という手法は、自分について語ることを我慢できないというスタンダールの個人的パーソナリティに起因する要因にばかり帰すべきではないのではないか。むしろなんとか読みとり可能性 lisibilite を持たせるために要請される必要物としての側面が大きいものと解したい。著者の介入を用いれば「彼は〜を知らなかった、悟らなかった」という風に「負の情報」をポジティブな形で伝達することが出来る。「それを自らに白状することなく」 sans se l'avouer とか「自分では思いもよらなかったが」  sans qu'il s'en doutat のような挿入句、従属節によるこの種の負の情報の伝達は Victor Brombert が注目しているところであるが、彼はその著Stendhal et la Voie oblique (PUF, 1954)の中でスタンダールが多用する従属節による著者介入は「強調することなしに彼の登場人物たちの無意識を浮き彫りにするとき、もっぱら著者自らの存在を隠すために」用いられたのだと結論しているのである(17)。

ただしこのようにすれば必然的に主人公は読み手の中で客体化、対象化されてしまうことになる。スタンダールのレシでは究極の目的としてある登場人物と共感し共に生きることが目指されているとすると、読み手が自分の持っている知識を持たないもの、ある欠如態として主人公を眺めることは、彼との重なり合いを不可能にすることでありこの目的に反することになる。だから「著者の介入」とは、スタンダールの個人的パーソナリティの関数というより、主人公の内的世界に語り手が重なってはいないことを意識的に示す手段、逆の動きで主人公の意識を反省の入らない純粋状態に保つための操作ではなかったか。決定的に重要な意味を持つ局面、ここは説明なしで理解して主人公と生を共有して欲しいというところでは、スタンダールはこれを避けているのではないだろうか。そう考えると当然ながら「その人物の意識しないこと」は書かれないまま残され、レシが情報として不完全なまま読み手に与えられるということになる。その場合彼は読み手に、主人公と自分にある欠如をそれと察しそこに共感してくれることを願っているわけである。あるいはそういう読み手にこそ読んでもらいたいと思って、一般的読みとり可能性をあえて犠牲にする行為を実践しているとも言える。

5.意識の「対象」でないもの

「意識にないもの」「原理的に意識対象にはなりえないもの」そして「意識の外に置きうるもの」とはどんなものかを考えるとき、スタンダールのレシの特性、それを研究することがいかに大事かが、そしてスタンダールの実践がいかに真摯な、理論的に首尾一貫したものであるかが見えてくると思われる。ここではそのいくつかを指摘するにとどめるが、それらのひとつひとつがスタンダールにおいて従来から論議の対象になっている各問題圏とつながっているのが分かると思う。逆に言えば、これまで個別に論じられてきた諸問題が「意識の対象」をめぐる問題意識を核に統一的に論じうるように思われるのである。

まず「意味」「意図」ということに関して。『赤と黒』の読みで考えるなら主人公の「偽善」について拙論『Julien Sorel の hypocrisie と読み手の問題』 (Gallia, no.25, 1985)で素描されている問題意識が例としてあげられる。意味ということに関して異様なまでに複雑な成り立ち方をしているこの小説においては、主人公の「愛」を「意味すること」そのものを語ることが避けられているために読み手は内容世界の事態についてある意味で「誤解」し、しかもその誤解自体が特殊な効果を生んでいるのではないかという問題提起であった。彼の「求愛行為」が偽りのものであるか、真の愛の表現であるか、本当は「原理的に」決定し得ないのである(18)。

それから「幸福」も意識の「対象」ではなく、「経験」ではないことがスタンダールに大きく関係する(19)。幸福を描くことができない、という彼の嘆きを聞かなかった読み手があろうか。寺西暢子氏の言うようにスタンダールのテクストにおいて「幸福」を指し示す「モノ」としては「落ち着いた語りの枠組の中における幸福な恋人達のちょっとした日々の出来事」などのようなものしか眼につかないように思われる(20)。「幸せ」をそのものとして言語でとらえようとする行為が避けられているからこそこのような印象を受けるのではないか。「わたしは幸福だ」と口に出して、あるいは心の中で唱えることがその人物が幸せ「である」ということと等価にならないのは明らかである。幸福は言語的なものではなく、対象化できるものではない。「幸福が記憶を残さないのに、どうしてそれを描けようか」(21)という嘆きは、スタンダール個人の心理的特質よりむしろ多くの場合きわめて一般的な認識に根拠を持っているのではないのか。

もちろん本来の意味の「視野の制限」も「意識の対象でないものは書かれない」という規定に包含することができる。特定の登場人物の認識、想像力がある「もの」に及ばないならば、その「もの」が彼の意識の対象となるはずがないのである。さらに、認識しうる場所にいても人物が意識を向けないような対象、特に場面が展開する背景などが書き得ないということも同じように導き出せる。このことの帰結はもちろん描写のための描写が不可能になるということである。スタンダールはWalter Scott 流の描写の過剰への嫌悪を公言するのみならず、そもそも「描写」ということのために不純な注意力が用いられること自体を回避したいのである(22)。

他にもさまざまなカテゴリーが指摘し得ようが、スタンダールの文学的意義に関して重要なのは先に述べた「意識するまいと心理的に抑えつけられているもの」である。このことに関しては、「意識するまい」とするためには、ある程度そのものがどういうものであるか知っていないといけないということが指摘できるので微妙なところがあるが、重要なことは他の諸カテゴリーは「著者の介入」で読みとり可能性を確保するという手段がとりうるが、この場合に関しては「意識にのぼること」自体が禁止されるわけだから原理的に不可能になるということである。ともかくそのことが如実に現れている例は特に『赤と黒』に多い印象を受けるが、本論は理論的なもので実例をあげるのは別の場に譲ることにしたい(追記:その試みのひとつが『アグドの司教』論文である。97.9.15)。

以上のようにわれわれは、かつて「視野の制限」と捉えられていたものを、「登場人物の意識の『対象』でないものを対象として言語化しないという、物語内容の安定した伝達という目的には逆行する試み」のことと捉え直すことにしたいのである。

Crouzet が「スタンダールのレシは非=レシである」というとき、それは物語内容が「伝達」可能な、完全に客体的に確固としたモノとしての体をなしていないという意味なのであり、また「スタンダールには方法がない」と言っているのは読者に安定した読みとり可能性 lisibilite を提供しないということなのであろう。しかし虫のいいスタンダールは、読者にlisibiliteを保証しなくてもロラン夫人のように彼と魂の似た人が「五、六語欠けている言葉を補って」(23)理解してくれてコミュニケーションが成立する機会を夢見ていたのであり、またまさにこのような読者との幸運な巡りあいを期待することによってしか成立しないようなコミュニケーションこそを目指していたと思われる。考えてみればスタンダールは、自分の語ることが万人のためのlisibilite を望んでいないことをちゃんと公に宣言しているではないか。有名な「幸福な少数者」 Happy Few への呼びかけは、そのような意味で解すべきものではないだろうか。

(1)少なくともスタンダールが視点の問題に生涯全く関心がなかったとは言えない。たとえば小説 Lucien Leuwen の余白書き込みには「読み返しながらつねに次の二重の問いを自らにすること:主人公はどの眼からこれを見ているか? 読者はどの眼からこれを見ているか?」(1835年4月28日付。Romans I, Pleiade, p.1492)などという記述も見受けられる。もっともこのような心覚えがここでわざわざ書かれているということは、それが恒常的な問題意識ではなかったということの証拠であるかもしれないが。

(2)Gerard Genette のいう "histoire" ( Discours du recit , in Figures III, 1972.)。

(3)Introduction a la litterature fantastique, coll. Points, Seuil, 1970, p.35.

(4)Max Scheler が「共感」の様態を四つに分類したとき、最初のもの、

"le partage immediat direct de la souffrance de quelqu'un" として「愛児の死を前にした両親の悲しみ」を例にあげている。この場合、二人の親は「同じ」悲しみを「共同で」味わっているのである(Nature et forme de la sympathie, tr. Lefebvre, 1928, p.26-27)。

(5)トドロフのあげる例はVilliers de L'Isle-Adam, Vera である(ibid., p.36)。

(6)ウィトゲンシュタインが、言語がまっさきに記述してしまう「絵」Bild のことを語り、それが一定の適用を指し示すことによって「絵は人間を愚弄する」と述べていたことが想起される(Philosophical Investigation, II, vii) 。

(7)たとえばAlbert Thibaudet はかつてジュリアン、ファブリスたちを「スタンダールが自分自身から引き出し、彼自身の変形され作り直されたいくつかの部分をもって構成したという意味においていずれも作者自身なのだ」(Stendhal, Hachette, 1931, p.96)とした。

(8)Yuichi Kasuya, "Illusion parfaite, sympathie et sublime chez Stendhal"(『フランス語フランス文学研究』第67号、1995、p.101)

(9)Mina de Vanghel 余白ノート。 Romans et nouvelles, Cercle du Bibliophile, p.161.

(10)一体化にまでいたる「共感」が目的ということであれば一見一人称による語りが相応しいように思われるが、スタンダールは自伝以外めったにこの形式をとらない。そのことにBlinも奇異の感を抱いている(p.146)。

(11)Vie de Henry Brulard, chap.33, in OEuvres intimes II, Pleiade, p.854.

(12)Le Rouge et le Noir, I, chap.7, Classiques Garnier, p.35.

(13)Ibid., II, chap.10, p.289.

(14)Ibid., I, chap.8, p.47.

(15)たとえばRotrou 作『ヴァンセスラス』Venceslasで、恋愛が原因で兄弟殺しを犯したラディスラスが父王に弁明しようとするが、激しい情念に心が乱されていて言葉にならず "J'allais... j'etais..." とつぶやくというシーンがある(第4幕第4場。Theatre du XVIIe siecle I, Pleiade, p.1050-1051.)。Venceslas はスタンダールお気に入りの作品で『赤と黒』にも引用が出てくることは周知の通りだが、この下りには特に印象を受けたらしくずっと以前に "Commentaire sur Burke" なる試論の中でスタンダールはこの箇所を特に取り上げ、「うまい、という感覚を与え、ついでこの混乱を自分も体験したいという欲求および他のすべての恍惚の概念をわれわれに与えてくれた」(1811年2月13日。Journal litteraire II, Cercle du Bibliophile, p.311)としている。つまり言葉をうまく発することを妨げるほどの情熱の激しさにこそ読者が共感することが想定されているのである。情熱と言葉を失った状態との結びつきがスタンダールにおいて顕著であることはかねてから指摘されていることだが、これは言葉能力が失われるという否定的状態に積極的評価を与えているわけで同系列の事象とみなすことができるのである。

(16)拙論 "Fonction du fontenellisme et de l'espagnolisme dans la Vie de Henry Brulard" (Gallia, XXIV, Osaka, 1994) 参照。

(17)Op. cit., p.27. なおDoritt Cohn はTransparent Minds (Princeton University Press, 1978)において、心理的世界のrepresentation の基本的技法として三つのものをあげているが、そのうち語り手が直接作中人物の思考の分析を引き受ける「心理的物語言説」"psycho-narration" は言語的なものでも非言語的なものでもありうるとされている。Gerard Genette はここで「representer される状態が、無意識的な性格を持つことを言明する配慮がなされる場合」は例外で、たとえば『失われた時を求めて』でマルセルが「気づかぬうちに」"sans s'en apercevoir" アルベルチーヌを愛していたと書かれた場合には「わたしはアルベルチーヌを愛している」という文はマルセルの内的言説に登場しないことになると述べた後で次のようにつけ加える:「だがそれでもまだ当該の言説の不在が保証されるわけではない。すなわちマルセルがその時に他の文を−−そしてとりわけ『私はアルベルチーヌを愛していない』という文を−−『心で言う』[思う]ことも可能である。深い洞察力を持った語り手がこれを彼に代わって解読するdecoder というわけである」(Nouveau Discours du recit, Seuil, 1983, p.41)。ここで彼が "decoder" などという言葉を用いるからには、"Je ne suis pas amoureux d'Albertine"という文がなんらかの形で「存在」していて、その存在が "Je suis amoureux d'Albertine" を「意味している」と言いうるとしているのである。すぐに思い浮かぶのはフロイトの言う「否定」Verneinung のことだが、もし語り手がそのことを言わないなら、語り手はその人物が「否定」を行っているという重要な心理的「出来事」を報告していないことになり、従ってそこには重大な省略法ellipse があることになるわけだ。しかし問題は Genette のような立場をとるならばおよそどんな文でも適当な解釈コードを適用することによって任意の感情の「表現」である、その感情を「意味している」と解釈できてしまいそうに思えることである。

(18)ウィトゲンシュタインが「意味」「意図」が「経験内容を持っていない」としていたことと考えあわせると興味深い。Cf. Philosophical Investigation, II, xi, p.217.

(19)ちなみに初期のウィトゲンシュタインには「幸福と不幸は世界に属すことができない」(1916年8月2日付ノート。Notesbooks 1914-1916, Basil Blackwell, 1961, p.79)という認識があった。

(20)「スタンダールの『リュシアン・ルーヴェン』において、幸福な時がどのように語られているか?」『仏文研究』XXI, 京都大学フランス語学フランス文学会、1990, p.79.

(21)De l'amour, chap.32, Classiques Garnier, p.95.

(22)Souvenirs d'Egotisme, chap.5, in OEuvres intimes II, p.457.

(23)De l'amour, chap.3, p.14.

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