時は1796年、ボナパルト将軍率いる若きフランス共和国軍は、ロディ橋の戦いに勝利をおさめミラノに入城する。オーストリアの支配下にあった民衆は歓呼をもってフランス軍を迎えるが、特権階級はギロチンの恐怖に震え上がる。妻と妹ジーナを放ったらかして早々に町から逃げ出してしまったデル=ドンゴ侯爵の屋敷へフランス士官ロベールが宿泊する。デル=ドンゴ侯爵夫人はフランス軍の撤退後、男の子を産む。これが主人公ファブリスである。
(この書き方ではファブリスはどうみても侯爵夫人とロベールの不義の子という感じなのだが、そのことは以後ほとんど表だって触れられることがないし、ファブリス本人もそういうことは全然知らないようなのである)近所の村の子たちと遊び、殴ったり殴られたりしながら何も勉強せずに育ったファブリスだが、ボナパルトのエルバ島脱出の報を聞いた丁度そのとき鷲がパリの方角に飛んでいくのを見、それを運命の徴と感じる。
(ファブリスはブラネスという占星術に通じた怪しげな -- しかも意外に開明的なところのある -- 僧侶になついていた。そして語り手によればファブリスは、ブラネスの占星術そのものは全く信じていなかったにもかかわらず、何かのしるしが未来を告げるということを限りなく信じる心だけは知らず知らずのうちに受け継いでいた、というのである。それは彼が「人生の入り口で受けた深い印象」なのだった。一読して分かるとおり、さまざまな「予徴」感がファブリスを支配している。筆者はこのファブリスの気持ちは実にリアルなものであり、またこれなしにはこの作品は成り立たないと感じるのですが、読者諸兄はどう感じるでしょうか)
ファブリスはヒロイスムに心を高揚させ、ナポレオンのもとで戦おうと密かにフランスへ出発する。スパイと思われて放り込まれた牢獄からやっと脱け出してはせ参じたところにでくわしたのがワーテルローの大会戦であった。実際に経験した戦争は、英雄的な心をもった戦士たちが崇高な友情に結ばれて戦うというアリオストの英雄物語みたいなものではなかった。ファブリスは失望してイタリアへ帰る。
さて、デル=ドンゴ侯爵の妹ジーナは全ての男性の心を魅了する才気煥発な美女であった。最初の夫ピエトラネラ伯爵が反動的政治状況の中で殺されて寡婦であったときパルム公国の有能な大臣モスカ伯爵に求愛され、サンセヴェリナ公爵夫人としてパルム宮廷にデビューし、ここでも花形として君臨する。だがパルムにやってきたファブリスを見たサンセヴェリナ公爵夫人は、成長しイタリア一の美青年となった彼に心を奪われてしまう。サンセヴェリナとファブリスは叔母−甥の関係であり、恋愛関係には入らない。「恋」という言葉が二人の間で発せられることはない。しかし傍目には熱烈な恋人同士としか見えないのである。モスカは激しく嫉妬する(この嫉妬の描写はすごい!)。
ところがファブリス自身は、すごい美青年でサンセヴェリナだけでなくどんな女性にも愛され、もててもてて仕方のない男なのに、内心自分はなんかおかしいのじゃないかと思い悩んでいるのである。適当に美しければ恋の相手は誰でもいいとしか感じられない自分は、俗な快楽しか経験できていないのだと彼は考える。ただ一人の女性に捧げるべき「真の恋愛という、あの崇高な狂気」を彼は感じることができない。それで、なんとかこの感情を知りたいと思い彼は「恋を追いかける」のだが、なかなかうまくいかないのである。
サンセヴェリナ公爵夫人、モスカ伯爵、クレリア、あるいはパルム大公ラヌッチオ=エルネスト四世、廷臣ラシたちはそれぞれ魅力あるキャラクターで、その中におくと、まさにバルザックが指摘した通りファブリスは影が薄く主人公としては弱く見えるかもしれません。しかしそれでもこの作品はまぎれもなく「ファブリスは真の愛を知ることができるだろうか」という興味が核となって紡ぎ出された物語なのです。
追記:クリスチャン・ジャック監督、ジェラール・フィリップ主演の映画『パルムの僧院』というのがありますが、これはストーリーからして全然原作とは別物と思って下さい。クロード・オータン=ララ監督『赤と黒』についても思ったことですが、スタンダールの作品は映画にはしにくいし、無理に映像化してしまうと原作の長所があらかた失われてしまうようにわたしは思います。
[98年12月18日更新]