スタンダールにおけるイタリア性について

Yuichi KASUYA


[ Mare Nostrum No.8、地中海文化研究会編]

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スタンダールという作家は、全てがイタリアと結びついた人物だと言ってもあながち 過言ではない。「スタンダールにとってイタリアは幸せな現実、ひとつの神話とな る。読書、旅行、全てがイタリア人を選ばれた民と彼にみなさせるのに貢献する」と Francine Marill Albérèsは述べている(Le Naturel chez Stendhal, 1956, Nizet, p.135)。既に Michel Crouzet の Stendhal et l'italianité, Corti, 1982)という浩瀚な著も出版されていることでもあり、詳しいことはそちらを参照していただくことにして、本稿では彼の半生をたどりながらイタリアに関係するいくつかの重要なテーマについて管見を述べさせていただきたい。網羅的なものでは全くないことをあらかじめおわびしておく。



1.スタンダールの出自とイタリア


まずは、スタンダール自身の出自との関わりにおけるイタリアを見よう。
スタンダールことアンリ・ベールが生まれたのはグルノーブルで、1783年のこと であった。この町はパリから南東へ557キロ、三方を山で囲まれた盆地にある。当 然パリよりもイタリア、スイスの方がずっと近い。ジュネーヴ生まれのルソーとは若 い頃の体験になんとなく類似点を感じることがあるのも不思議ではない。
ところでグルノーブルの属するドーフィネ県の北は、大革命前はまだフランスではな くサヴォワ公国という国だった。後のイタリア王家となるサヴォワ家の下に、現サヴ ォワ県県庁所在地シャンベリーとイタリアの都市トリノは長く同じ国にあったのであ る。アンリの叔父で遊び人のロマン・ガニョンが年貢を納めて結婚した後に居を構え たレ・ゼシェル Les Echelles の町がフランスと境を接したサヴォア公国側にあった。 この叔父のところへ遊びに行ったときの思い出を、後にスタンダールはこのように語 っている:

私はレ・ゼシェルに旅行したが、それは天国に行ったようなもので、そこではすべてが私を夢中にした。(『アンリ・ブリュラールの生涯』Vie de Henry Brulard, 第13章、105頁(注1))

叔父の奥さんをはじめとする、陽気で美しい女性たち。そして自分を敬意をもって扱 ってくれる大人たち。遠足。紅鱒釣り。それらはグルノーブルの陰気な生活からのし ばしの解放であった。そして彼はつけ加えている:

数年後、私はこれらの善良な人びとの姿をそっくりそのまま、ルソーの『告白』の、シャンベリのところでふたたび見出した。(同、108頁)

しかしスタンダールが生涯追求しつづけるイタリアはサヴォアではない。スタンダー ルにとってイタリアはまず母と結びついた存在である。
彼が7才のとき母が産褥で死んだことは、彼の精神生活を決定づける事件であった。 「私の母、アンリエット・ガニョン夫人は魅力的な女性で、私は母に恋していた」 (第3章、29頁)に始まる彼のエディプス感情の吐露はあまりにも有名であるが、 亡き母につらなるものへの愛がイタリアと関係していることに注目しよう。母方の祖 父アンリ・ガニョンは教養豊かな人物で「彼の趣味のほとんどすべてを私に伝えた」 (第3章、27頁)人物であり、「私のほんとうの父」(第5章、41頁)と呼ばれ ている。その祖父の姉も幼いスタンダールの尊敬を受けていて、彼が「スペイン魂」 とよぶ「名誉心の精髄」のような性格はこの大叔母から受け継いだものだ(第12 章、100頁)。彼女が彼に語って聞かせたことは:

われわれ(つまりガニョン家の者)はプロヴァンスよりもはるかに美しいある国の出身だということ、彼女の祖父の祖父が、きわめて不吉なある事情(スタンダールはそれを殺人と想像している。筆者注)のため、ある法王のお供をしてアヴィニョンに身を隠しにやってきたこと[...](『ブリュラール』第8章、62頁)

であった。これを聞いたスタンダールは「オレンジの木が地面にじかに育つような 国」(同)に自分のルーツがあるという夢想に耽る。彼はそれが事実である証拠とし て、当時のフランスでは珍しく、教養人の祖父のみならず母自身もイタリア語を知っ ており、ダンテを原語で読んでいたことをあげる(63頁)(注2)。のちにスタン ダールは自問する:

どうしてフランス人なのに自分はチマローザ風の音楽に才能を持ちうるのか? 私はそれに答える。私は自分が似ている母によってたぶんイタリアの血をうけているのだ、と。(第37章、266頁)

さて大革命下の新制度として誕生した「中央学校」Ecole Centrale に13才で入学した 彼は、将来は大作家になるくせに数学に熱中し、その優秀な成績のため1899年、 16才のとき、5年前に創設されたばかりの理工科学校 Ecole Polytechniqueに推薦が決まり上京する。しかしパリに着いてしまうと理工科学校への入学手続きをしない。数 学はグルノーブルを脱出する手段にすぎなかった、本当はモリエールのような大作家 になるのが小さい頃からの夢だったと彼は言うのであるが、書き上げた作品もこれと いう着想もあるわけでなし、さしあたって何をしたらいいのか分からずただぶらぶら するばかりになってしまった。
自分の行かなかった理工科学校に彼は終生こだわっている。彼の作品にはオクターヴ (『アルマンス』)、リュシアン(『リュシアン・ルーヴェン』)を初め理工科学校 出身の人物が何人か出てくる。この学校は合理的精神の具現としてとらえられている のであろうが、その創設者の一人、初代学長のラグランジュはフランス系ではあるが トリノ出身であり、スタンダールが「分析における新しい様式を発明した偉大なイタ リア人」と呼んで尊敬していることは注目に価する。(『イタリア語の危機につい て』"Des périls de la langue italienne"(1818), Journal Littéraire III, Cercle du Bibliophile, p.76) 数学が家を出るためのただの手段だなどとはとても言えない。中央学校の数学のクラスで一等をとったことは、生涯彼の心の支えになっていたはずなのである。
さて何もしない彼を放っておくわけにもいかず家族はパリの親戚ダリュ家に引き取っ てもらう。ナポレオン配下の有能な事務官であったピエール・ダリュは彼を陸軍省に 入れ経理の仕事をさせ、やがて第二次イタリア遠征に従軍させてイタリアに連れてい くことになる。
いよいよイタリアである。「ここからイヴレアまで何里ですか?」"quante sono miglia di qua a Ivrea ?" というのが、彼の覚えた最初のイタリア語だったという(『ブリュラール』第45章、323頁)。はじめて見るイタリアで彼が最初に出くわしたものは何だったか。音楽である。


注1)『アンリ・ブリュラールの生涯』は紛れもなくアンリ・ベールの自伝であるの になぜこんな題なのか、スタンダールの意図はよく分からない。確かにブリュラール なる名字の縁者が母方の遠縁におり、これもまた母系への帰属の意思表明のひとつで あるとVictor Del Litto は考えている(Stendhal, OEuvres intimes II, Pléiade, p.1361)
注2)その母の蔵書らしい『神曲』がグルノーブルの図書館に残されているが、この 本は残念ながら翻訳である(OEuvres intimes II, p.1350)。



2.スタンダールとイタリア音楽

その夜、私は忘れることのできない感動を経験した。私は劇場に行った。[...] チマローザCimarosa の『秘密の結婚』Matrimonio segreto をやっていた。カロリーヌを演じた女優は前歯が一本欠けていた。これが崇高な幸福からのこっている記憶のすべてである。(『ブリュラール』第45章、324頁)

生活しなければならない、自分はこれから世の中を見よう。立派な軍人になろう。そして一、二年したら自分の唯一の愛たる音楽に戻ろう。そんな誇張した言葉で自分の心に言っていた。(同、325頁)

イタリアで生活し、このような音楽を聴くこと、それが私のあらゆる考えの根拠になった。(同)


彼が音楽に接したのはもちろんこの時がはじめてではない。故郷グルノーブルで初恋 を感じたのはキュブリー嬢なる田舎回りの女優であり、彼女がフランスのオペラ曲を 貧弱な声で歌っていたことをスタンダールは回想している(第24章、176頁)。 しかし彼は「フランス人によって作られた美しい歌を私はみたことがない」(第37 章、266頁)などと無茶苦茶なことをいい、これまたルソーと同じようにイタリア 音楽支持者、熱狂的支持者となるのである。
さてイタリア音楽といっても彼はこのチマローザが一番であった。

ほんとうを言えば、私には、二人の作曲家チマローザとモーツァルトの歌だけが完全に美しいと思われる。(第37章、266頁)

さてそれでは、「イタリア人が怪物と呼ぶ」モーツァルトは別として、スタンダール はチマローザのどういうところが好きだったのか。スタンダールは1812年モスク ワ滞在中、イタリア語でこんなノートを残している。

私がチマローザを愛するのは、私がいつか産み出したいと思っている感覚sensation と同じものを彼が産み出すところからくるのだと思う。あの『結婚』の陽気さallegriaと情愛tenerezzaの混交は、私にとってまったく生来のものだ。(Journal IV, p.24)

チマローザの allegria e tenerezza、つまりスタンダールが産み出すべきものには優しい感情、愛情が入っていなければならず、また陽気さが不可欠であったわけである(注 1)。スタンダールの本領はしたがって『パルムの僧院』である。『赤と黒』の方 は、鈴木昭一郎氏の言葉を借りれば「壮絶な力技」の成果なのである(注2)。
フランス音楽はなぜ駄目なのか。それは、恋の表現をイタリア音楽からいくら真似ても、フランスでは恋愛は副次的情熱であって虚栄心、機知の方が大事だからである。イタリア人にとっては「本当に」音楽が好きだから劇場にやってくる。フランスでは人はコンサートに、自分の趣味の良さ、鑑識眼の高さを見せびらかしに行くのであり、楽しもうというのではない、というのである。

イタリアがどのジャンルでも<美の国>le pays du beauとなったのは、つねに新しい理想美を求めるからであり、各人が自分の心の声しか聞かないのでペダンチック派が当然の報いとして軽蔑されきっているからである。(『ロッシーニ伝』Vie de Rossini, 導入部、14頁)

ちなみに彼は、良い音楽というのは「そのときの夢想の対象を想起させ、いろいろす ばらしい考えを与える」ものだという言い方もしている。「スカラ座で1814年か ら21年の楽しい時期をすごせたのもそのためである」(『ブリュラール』第37 章、270頁)。考えの内容は「ギリシャ人を武装させる方法」(1822年2月。 1821年にはギリシャ独立戦争が始まっている)だったり(『恋愛論』De l'Amour 第16章、34頁)だったり「フェヌロンとモンテスキューを調和させる法」(1816年9月30日付 Louis Crozet の手紙。Correspondance I, Pléiade, p.824)であったりする。感覚論哲学の信奉者スタンダールとしては音楽という「刺激」に対応する 「反応」がどんなものであるかということに関心があるからこのような考察が生まれ るのであろう。バックグラウンド・ミュージック的発想と言うべきか。


注1)私事になるが、FMラジオでこの曲が放送されたことがあり、スタンダールの 好きだった曲だからという理由で筆者はたいして期待もせず聞いたのだが、これは実 に楽しいオペラである。スタンダールという人の感性が如実に理解される。レーザー ディスクが発売されている(Pioneer, PILC-1124)が、あまり演奏される機会がないのは まことに残念である。アレグロの素晴らしい序曲から、いささか安直なしかし楽しい 大団円まで間断するところがない。
注2)『人と思想/スタンダール』、清水書院、1991年、53頁。もっとも『赤 と黒』Le Rouge et le Noir も、チマローザの情愛と無縁なわけではない。あの陰険な雰囲気の主人公ジュリアン・ソレルが泣き崩れてしまったという『秘密の結婚』のカロリーナのアリアを一度聞いてみていただきたい(第30章)。ジュリアンがどういう感性の持ち主であるか、認識を改める人もあることだろう。




3.スタンダールと女性


1800年、ナポレオンに従って入った都市、ミラノ。スタンダールが来る四年前の 第一次イタリア遠征軍がミラノの人々に解放軍として迎えられたという『パルムの僧 院』冒頭の歓喜と熱狂にあふれる文章や、『アンリ・ブリュラールの生涯』執筆がこ のミラノでの歓喜の体験の下りにさしかかったとき「まったく私はつづけられない。 題材が語る者の力を超えているのだ」(第46章、329頁)としるして中断してし まったことは有名である。
そのうち彼は同僚の情婦であったアンジェラ・ピエトラグリュアに恋心を抱いた。こ の女性、夫はいるもののしがない公務員で、親の仕事、フランス軍に軍服を売る商売 の関係で、フランス兵とたくさん友達になることが営業戦略でもあったわけだ。意志 表示さえすれば比較的簡単に成就すると思われる恋にもかかわらず若きアンリ・ベー ルは何もしないまま休暇をとってフランスへ帰り、のちに勝手に軍に辞表を出してし まう。帰還したグルノーブルでは大革命初期に活躍した政治家ムーニエの娘ヴィクト リーヌに恋するが、これも「生涯に七回しか会っていない」らしく実体のない恋であ る。父から仕送りをもらう約束をとりつけるのになぜか成功した彼はパリで将来の大 喜劇作家を目指して独学で勉強を開始するが、戯曲は結局生涯ひとつも完成しなかっ た。「数学的に」完璧な作品を書こうとしすぎたからであるように筆者には思える。 はっきり言って醜男の部類に入るスタンダールは、消極的性格も災いしてなかなか恋 人を作ることができなかったが、訛りを矯正するという目的もあって朗読のレッスン を受けていたとき、受講生のなかに女優の卵メラニー・ギルベールを見つけ、アタッ クし、ついにその情人となることに成功する。しかし欲張りなスタンダールは彼女で は満足しなくなる。彼はまだイタリア美人、「崇高な娼婦」アンジェラのことを覚え ているのである。

私は彼女にもうすこし激情 transports がほしかった。[...]美の点では、だれもこれ以上にめぐまれてはいない。私は、私が願っていた以上に、完全な、崇高な美を、もっとも美しいギリシア型の顔の優美さを目の前にしていた。しかし私はアンジェリーナ(=アンジェラ・ピエトラグリュア)にはあると想像する激情がほしかった。(1805年11月8日の日記、514−515頁)

結局メラニーに飽きてしまって別れた後、彼は再び軍隊に入り、今度は主にドイツで 仕事をする。パリでは女優のアンジェリーヌと同棲するが、彼女をほったらかしてス タンダールは長期休暇を取りイタリア旅行にでかける。アンジェラと再会することが 予定に入っていた。1811年のことである。
11年振りに再会した意中の女にスタンダールは愛を冗談ぽく告白する。すると彼女 は「なぜその時言わなかったの?」と二度繰り返したという。アンジェラの部屋で待 ち合わせ。しかし約束の時間には彼女が留守で気をそがれ、二時間後に彼女を前にし たときは意外にも心は全くときめくことがない。自分の口調の冷ややかさは「ふつう のフランス人のしゃべり方がイタリア人よりずっと激しいために」目立たなかったら しいが。このときアンジェラは「わたしの心の平静のために」ミラノを出発して頂 戴、と願う。最初スタンダールはミラノに一月滞在してその間アンジェラの愛人でい ようと思っていたのだが、そう考えるとミラノが退屈に感じられる。彼女といないと きにはいったい何をしていたらいいのか分からないというのである。それでスタンダ ールはミラノを発つことに同意するのだが、その途端に二人にとって「全てが感動的 になった」というのが面白い。幸福に必要な激情がやってきたのである。出発日の前 日にやっと二人は結ばれる。しかし彼は「勝利」の日の日記に、幸福が完全であるた めには関係を三度は重ねて「うちとけた間柄」intimitéにならなければいけないのだと書く。(以上 Journal III, Cercle du Bibliophile, p.222 sq)
全く注文の多い人であるが、彼が幸福を感じるためは、想像力がかきたてられること と、自分も恋の相手も自然になれることが必要なのがよく分かる。
その後は、スタンダールが彼女にずいぶん金を貢ぎ、アンジェラの方は夫の嫉妬を口 実に持ち出してたくみに彼を操る、そういう関係であった。ナポレオン失脚でスタン ダールが落ちぶれるとアンジェラも冷たくなったようで、そのうち別れてしまう。




4.スタンダールとイタリア美術


こうしてやってきたイタリア各地で絵画を見るにつけこの分野における基礎的知識の なさを痛感した彼は、Lanziという人の書いた『イタリア絵画史』Storia pittorica dell'Italia を読み、さらには翻訳しようと思いつく。翻訳といっても彼のいつものパタ ーンで、そこから自らの考察を展開するための土台なのである。この仕事に彼は一生 懸命打ち込む。ノートをモスクワ遠征にまで持っていってあの1812年冬の歴史的 大潰走の折りになくしてしまってもくじけることなく、失った原稿をまたたくまに書 き直したスタンダールは新たに書いた部分をどんどん付け足していき、ついに『イタ リア絵画史』Histoire de la peinture en Italie(1817)を上梓する。ただし予定していた続刊はされずじまいで、ミケランジェロについて語った部分でで終わりになっている。ただし途中ながながと展開されるスタンダール独自の美学理論の部分は注目に価 する。
芸術の発達を気候風土で説明することは十八世紀にはすでに平凡な議論となっていた。その上でHelvétius は社会制度の影響を論じ、Winckelmann Staël夫人は歴史の要素を重視する。自由と情熱がなければ偉大な芸術家は生まれない。スタンダールはイタリアがなぜ最高の美を生みだしたかについて独自の説明を試みる。
昔、北方から自由の気風を持つ人々が南の地にやってきた。イタリアの気候は事物を 強烈に感じさせる。キリスト教が人々に地獄の鮮明なイメージを見せ、宗教的感情を 植え付ける。ただしローマ法皇は巧妙にも、自分はすべてを許す力を持っていると 人々に信じさせている。それに近代社会では強力な力となる世論というものが成長し ていない。商業によって富を蓄積した情熱的な人々が美なるものの創作・享受に向か うのに、何の歯止めもない。こうしてイタリアでは美が神となったというのである。 (『イタリア絵画史』序説)
さらにスタンダールは、美一般について「美とは有用性の表現である」(第111 章、254頁)と定義する。古代の美もまた、古代に役に立つ性格の表現であった。 最初は力そして若さがあがめられた。ついで正義、善良、不死が付け加わり、神のイ メージが完成する。また理性、慎重さの表現が美として敬愛される。しかし文明の発 達した近代社会においては、肉体的な力は必要がない。戦いにおいてさえ兵器の発達 のおかげで、力とは肉体的特質というより、勇気のことになる(第120章、266 頁)。美が古代と同じであるはずがなく、近代には近代の美があるはずである。役に 立つものが古代とは違うのだから。タッソー『解放されたイエルサレム』を引用して スタンダールは主張する:

エルミニアが冑をぬいで、彼女の美しい髪が房々と黄金の環を作って 両肩に波立ち、牧者たちの目を覚まさせる瞬間、彼女の美しい顔に は、弱々しさが、不仕合せな恋が、平穏をねがう心が、そして経験か らくる善良さではなく、同情共感 sympathie からくる善良さが必要なの である。 古代の美は力や理性や慎重さの表現である。ならばまさにこのような 全ての徳を欠くからこそ強く人を感動させるという情況を表現しなけ ればならないとき、古代の美ではどうしようもないことになるではな いか。(『イタリア絵画史』第115章、262頁)

スタンダール個人として、一番お気に入りの画家はコレッジオであった。優しく tendre、きついところがほとんどなくrarement piquant、誘惑的でséduisant、抵抗し難いirrésistible... 『パルムの僧院』への賛辞の謝礼として書いた バルザックへの手紙第二草稿で彼は、

サンセヴェリナ夫人の人物はみなコレッジオから写しました(つま り、コレッジオと同じ効果を私の魂におよぼします)。(『パルムの 僧院』付録、590頁)

という面白い言い方をしている。
しかし、ミケランジェロを論じた『イタリア絵画史』の最後の部分でスタンダール は、極度に文明が進歩し虚栄がはびこってしまった社会では、やがてエネルギーへの 愛好が復活するであろうことも予言する。

[...]すべてを嘲笑する才能が卑俗なものとなり、幾世代もがそ ろって、同じように虚栄心以外のいかなる利益をも顧みず、同じよう に何らの光栄をのこすこともできずに、すっかり彼らの生命を、同じ 軽佻な物事をするためについやしつくしてしまったとき、人は人々の 精神に一つの革命がおこることを予告しうる。[...]強い感動が またふたたびもとめられ、もはやいわゆる粗暴さなどというものを心 におそれなくなるだろう。(『イタリア絵画史』第184章、404 頁)

ロマン主義の台頭と、彼の未来の作品群を予告する指摘である。


5.スタンダールと恋愛


ナポレオンが没落し自分も失業してしまうと、羽振りのよかったころを知る友人たち と顔をあわせるのも気が進まないし、パリより物価が安いこともあり、スタンダール はミラノに定住する。そしてミラノの知識人たちと交わるうちメチルド・デンボウス キーへの、これも一方的といっていい愛が始まる。彼女はポーランド軍人の夫と別居 中であった。メチルドがスタンダールを遠ざけたのは、彼に対する他人の中傷を真に 受けたからだとスタンダールは信じていた。
スタンダールの恋愛の仕方はアンジェラがいみじくも言ったように「受け取るばかり で、絶対取りに来はしない」Recevoir et jamais prendre (Journal III, p.248)のである。始末の悪いことに彼は自分の性向を理論による正当化までしてしまう。人は真に愛したら攻撃性を失い、自己の利益を計らなくなる。恋愛において「利益を計ろう」つまり恋愛を進展させようとしていろいろ画策、行動するのは、愛することが少ないからできることであるという。

すこし恋がさめてこないと、愛する女にたいして勇気をもてるもので はない。(『恋愛論』断章47、212頁)
もし彼女になにかしてやれるという幸福をもったとしても、ぼくの最 初の願いはそれをかくすことだろう。(第31章、76頁)

メチルドに対しても「関係を進展させよう」としていたころは、それほど彼女を愛し てはいなかったというのである。もっとも第三者の目からは、この恋は押しても引い てもうまくいきそうにないと見えるのだが。
有名な『恋愛論』は、これも有名な話だがメチルドへの失恋の苦しみを紛らわすため に書かれた。だからメチルドとの愛における個人的思い出の部分に意味があるだけで 理論的な価値はないとするのがスタンダール研究の現在の主流なのだが、そんなこと もあるまいと思う。この本の土台には彼なりの感覚論哲学、彼のいう「イデオロジ ー」idélogie 哲学がある。情熱=恋愛 amour-passion とは、ときには生き物としての最低限の本能、生存本能さえ壊してしまう恐ろしい「病気」であり、しかも最高の喜びでもあるという矛盾に彼は注目しているのである。
しかしともかく『恋愛論』もイタリア賛美の書であることに変わりない。

[イタリアは]ヨーロッパ風俗の現状では、これが私の記述する植物 [=恋愛]がすくすく自由に育つ唯一の国なのだ。フランスでは虚栄 心、ドイツでは噴飯ものの気ちがいじみた自称哲学、イギリスでは臆 病で悩みのおおい恨みにみちた自尊心がこの植物をいじめ、窒息さ せ、あるいはおかしな方向へまげてしまっている[...]。(第4 0章、116頁)


恋愛の諸段階についての記述の中でも「森を去ってパリに戻ろう」(第2章、11 頁)と書いてあることからも分かるように、やはり対象となる読者はフランス人なの であるが、フランスは倦怠という文明病をかかえている。そこで:

文明の完成とは十九世紀のあらゆる繊細な快楽にもっと頻繁な危険の 存在をむすびつけることにあろう。(第41章、119頁)

とスタンダールは喝破する。

中世では危険の存在が心を鍛えたのだ。私の誤りでなければ、そこに 十六世紀の人間のおどろくべき優秀さの第二の原因がある。(同、1 18頁)

『赤と黒』でマチルドの憧れるのが十六世紀であり、『イタリア絵画史』で扱われる 天才たちが十六世紀の芸術家たちであることとも呼応している。

イタリアの幸福は瞬間の感動にしたがうことだ。[...] そのうえイタリアは中世共和都市の美徳であった有用が名誉心つまり 君主に都合がいいようにゆがめられた美徳に王座をうばわれなかった 国である。真の名誉心も愚かな自尊心への道をひらく。愚かな自尊心 は習慣的に自問する、「私の幸福を他人はどう思っているだろうか」 と。しかし愛情の幸福は外にあらわれないものだから虚栄心の対象に はならないのである。(第43章、123頁)



6.イタリア語問題、作家スタンダール


ミラノの知識人との交流の中で、イタリア語の危機についての問題もスタンダールの 心をとらえている。標準語が方言を完全に屈服させてしまったフランス語とは対照的 に、イタリア語は多様である。ミラノ語もヴェネチア語もボローニャ語も、自己の存 在を主張するのでは、イタリアが四分五裂状態で固定してしまうことになる。それに 衒学者たちが標準語としておしつけるのは中世のトスカナ語である。それだけに明晰 さを誇るフランス語の流入にたちうちできない。イタリア語は下手をするとフランス 語単語の語尾だけかえたようなものになりかねないというのである。不幸で貶められ たイタリアを分割している諸部族を結集し、諍いを短く、簡単に終わらせるようなよ いイタリア文法をスタンダールは待望しているが、それでも各人が「自分に自然な言 葉」を使うのが理想ではあるのだ。(『イタリア語の危機について』、Journal Littéraire III, p.55 sq)。
メチルドへの愛は見込みがなく、政治的情勢からもミラノにいられなくなった彼は1 821年パリに帰ってくる。イギリスの雑誌にフランスの新刊本やトピックについて 寄稿するなどして9年間生活したのち七月革命で政権が変わりやっと就職できること になるのだが、外国から政治的危険人物とみなされた彼はローマ近郊の小さい港町チ ヴィタ・ヴェッキア領事というしけたポストしか得られなかった。気の利いた話ので きる相手もいない田舎町で彼は死ぬほど退屈する。彼の愛するイタリアとはミラノを 中心とする北イタリアであるのが分かる。「文明はフィレンツェまでで終わり」なの である。そこでたびたび任地を留守にし旅行する。また退屈を紛らわせるためにさま ざまな作品に着手する。
スタンダールは、時代の性格を特徴的に表す逸話を好んだ。特に情熱がもたらす大胆 な行為を語ったものを。たとえば既に『イタリア絵画史』にはビアンカ・カペッロと いう女性の挿話が含まれていた。その美貌と大胆な性格の故にフィレンツェ大公の妃 になりあがり、あげくに自らの策に溺れて死を迎えるこの女性のエピソードはLalande の旅行記 Voyage d'un Français en Italie (1766)、当時出版中だったMichaud刊『世界人名辞典』Biographie universelle その他を土台にしてスタンダールが書き直したものである。
『イタリア絵画史』出版からはだいぶん経った後になるが、スタンダールは、イタリ アの恋愛と殺人が絡んだ逸話を翻訳、自分流にアレンジして出版するというパターン を得意技として身につける。1837年からは、彼が見る機会を得た十六世紀イタリ アの文書の翻案を数編続けて出版することになる。これらを総称して『イタリア年代 記』Les Chroniques italiennes という(この名前は作者の死後、全集が出版されたとき便宜上つけられたものである)。傑作 『パルムの僧院』La Chartreuse de Parme (1839)も、『ファルネーゼ家隆盛の起源』なる小さな文書がスタンダールの中で増殖を起こしてできあがったものである。極悪非道の父親に暴行を繰り返され、思いあまって父殺しを行う美少女ベアトリーチェの話『チェンチ一族』Les Cenciをはじめ、いずれもイタリア人の情熱の引き起こす血生臭い物語である。それ以前にも、1829年にはカルボナリ運動の闘士と貴族の娘との恋愛を描いた『ヴァニナ・ヴァニニ』Vanina Vanini を出版している。他ならぬ『赤と黒』も、舞台はフランスであるが情熱の示すすさまじいエネルギーを主題にしていることは言うまでもない。

結局スタンダールは死ぬまでチヴィタ=ヴェッキア領事のポストにいることになる。 『パルムの僧院』は、延長につぐ延長で3年の長きにわたった休暇の間にパリで書き上げられた。1842年3月に彼が卒中で昏倒してそのまま世を去ったのも、休暇中のパリでのことだった。『イタリア年代記』続編執筆の契約で、これまでの最高額の金を受け取った直後だった。墓碑銘に「ミラノ人」とイタリア語で刻むよう遺言が残されていた。

その他、文学をはじめ、古代ローマの継承者としてのイタリア、風景、建築、果ては その料理まで、スタンダールにおけるイタリア性を巡る議論はまだまだ尽きることが ないが、それはまた稿を改めて論じることにしたい。


[注] 引用は、『スタンダール全集』(人文書院刊)に日本語訳が存在するものに ついてはそれにより、『ロッシーニ伝』は山辺雅彦訳(1992年、みすず書房刊) により、同時に頁数を付した。ただし都合により訳文を改変させて頂いた箇所がある ことをつけ加えておく。日本語訳が存在しないものについてはセルクル・デュ・ビブ リオフィルCercle du Bibliophile 版全集を底本に筆者が訳出した。




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