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スタンダールという作家は、全てがイタリアと結びついた人物だと言ってもあながち
過言ではない。「スタンダールにとってイタリアは幸せな現実、ひとつの神話とな
る。読書、旅行、全てがイタリア人を選ばれた民と彼にみなさせるのに貢献する」と
Francine Marill Albérèsは述べている(Le Naturel chez Stendhal, 1956, Nizet, p.135)。既に
Michel Crouzet の Stendhal et l'italianité, Corti, 1982)という浩瀚な著も出版されていることでもあり、詳しいことはそちらを参照していただくことにして、本稿では彼の半生をたどりながらイタリアに関係するいくつかの重要なテーマについて管見を述べさせていただきたい。網羅的なものでは全くないことをあらかじめおわびしておく。
私はレ・ゼシェルに旅行したが、それは天国に行ったようなもので、そこではすべてが私を夢中にした。(『アンリ・ブリュラールの生涯』Vie de Henry Brulard, 第13章、105頁(注1))
叔父の奥さんをはじめとする、陽気で美しい女性たち。そして自分を敬意をもって扱 ってくれる大人たち。遠足。紅鱒釣り。それらはグルノーブルの陰気な生活からのし ばしの解放であった。そして彼はつけ加えている:
数年後、私はこれらの善良な人びとの姿をそっくりそのまま、ルソーの『告白』の、シャンベリのところでふたたび見出した。(同、108頁)
しかしスタンダールが生涯追求しつづけるイタリアはサヴォアではない。スタンダー
ルにとってイタリアはまず母と結びついた存在である。
彼が7才のとき母が産褥で死んだことは、彼の精神生活を決定づける事件であった。
「私の母、アンリエット・ガニョン夫人は魅力的な女性で、私は母に恋していた」
(第3章、29頁)に始まる彼のエディプス感情の吐露はあまりにも有名であるが、
亡き母につらなるものへの愛がイタリアと関係していることに注目しよう。母方の祖
父アンリ・ガニョンは教養豊かな人物で「彼の趣味のほとんどすべてを私に伝えた」
(第3章、27頁)人物であり、「私のほんとうの父」(第5章、41頁)と呼ばれ
ている。その祖父の姉も幼いスタンダールの尊敬を受けていて、彼が「スペイン魂」
とよぶ「名誉心の精髄」のような性格はこの大叔母から受け継いだものだ(第12
章、100頁)。彼女が彼に語って聞かせたことは:
われわれ(つまりガニョン家の者)はプロヴァンスよりもはるかに美しいある国の出身だということ、彼女の祖父の祖父が、きわめて不吉なある事情(スタンダールはそれを殺人と想像している。筆者注)のため、ある法王のお供をしてアヴィニョンに身を隠しにやってきたこと[...](『ブリュラール』第8章、62頁)
であった。これを聞いたスタンダールは「オレンジの木が地面にじかに育つような 国」(同)に自分のルーツがあるという夢想に耽る。彼はそれが事実である証拠とし て、当時のフランスでは珍しく、教養人の祖父のみならず母自身もイタリア語を知っ ており、ダンテを原語で読んでいたことをあげる(63頁)(注2)。のちにスタン ダールは自問する:
どうしてフランス人なのに自分はチマローザ風の音楽に才能を持ちうるのか? 私はそれに答える。私は自分が似ている母によってたぶんイタリアの血をうけているのだ、と。(第37章、266頁)
さて大革命下の新制度として誕生した「中央学校」Ecole Centrale に13才で入学した
彼は、将来は大作家になるくせに数学に熱中し、その優秀な成績のため1899年、
16才のとき、5年前に創設されたばかりの理工科学校 Ecole Polytechniqueに推薦が決まり上京する。しかしパリに着いてしまうと理工科学校への入学手続きをしない。数
学はグルノーブルを脱出する手段にすぎなかった、本当はモリエールのような大作家
になるのが小さい頃からの夢だったと彼は言うのであるが、書き上げた作品もこれと
いう着想もあるわけでなし、さしあたって何をしたらいいのか分からずただぶらぶら
するばかりになってしまった。
自分の行かなかった理工科学校に彼は終生こだわっている。彼の作品にはオクターヴ
(『アルマンス』)、リュシアン(『リュシアン・ルーヴェン』)を初め理工科学校
出身の人物が何人か出てくる。この学校は合理的精神の具現としてとらえられている
のであろうが、その創設者の一人、初代学長のラグランジュはフランス系ではあるが
トリノ出身であり、スタンダールが「分析における新しい様式を発明した偉大なイタ
リア人」と呼んで尊敬していることは注目に価する。(『イタリア語の危機につい
て』"Des périls de la langue italienne"(1818), Journal Littéraire III, Cercle du Bibliophile, p.76) 数学が家を出るためのただの手段だなどとはとても言えない。中央学校の数学のクラスで一等をとったことは、生涯彼の心の支えになっていたはずなのである。
さて何もしない彼を放っておくわけにもいかず家族はパリの親戚ダリュ家に引き取っ
てもらう。ナポレオン配下の有能な事務官であったピエール・ダリュは彼を陸軍省に
入れ経理の仕事をさせ、やがて第二次イタリア遠征に従軍させてイタリアに連れてい
くことになる。
いよいよイタリアである。「ここからイヴレアまで何里ですか?」"quante sono miglia di qua a Ivrea ?" というのが、彼の覚えた最初のイタリア語だったという(『ブリュラール』第45章、323頁)。はじめて見るイタリアで彼が最初に出くわしたものは何だったか。音楽である。
注1)『アンリ・ブリュラールの生涯』は紛れもなくアンリ・ベールの自伝であるの
になぜこんな題なのか、スタンダールの意図はよく分からない。確かにブリュラール
なる名字の縁者が母方の遠縁におり、これもまた母系への帰属の意思表明のひとつで
あるとVictor Del Litto は考えている(Stendhal, OEuvres intimes II, Pléiade, p.1361)。
注2)その母の蔵書らしい『神曲』がグルノーブルの図書館に残されているが、この
本は残念ながら翻訳である(OEuvres intimes II, p.1350)。
その夜、私は忘れることのできない感動を経験した。私は劇場に行った。[...] チマローザCimarosa の『秘密の結婚』Matrimonio segreto をやっていた。カロリーヌを演じた女優は前歯が一本欠けていた。これが崇高な幸福からのこっている記憶のすべてである。(『ブリュラール』第45章、324頁)生活しなければならない、自分はこれから世の中を見よう。立派な軍人になろう。そして一、二年したら自分の唯一の愛たる音楽に戻ろう。そんな誇張した言葉で自分の心に言っていた。(同、325頁)
イタリアで生活し、このような音楽を聴くこと、それが私のあらゆる考えの根拠になった。(同)
彼が音楽に接したのはもちろんこの時がはじめてではない。故郷グルノーブルで初恋
を感じたのはキュブリー嬢なる田舎回りの女優であり、彼女がフランスのオペラ曲を
貧弱な声で歌っていたことをスタンダールは回想している(第24章、176頁)。
しかし彼は「フランス人によって作られた美しい歌を私はみたことがない」(第37
章、266頁)などと無茶苦茶なことをいい、これまたルソーと同じようにイタリア
音楽支持者、熱狂的支持者となるのである。
さてイタリア音楽といっても彼はこのチマローザが一番であった。
ほんとうを言えば、私には、二人の作曲家チマローザとモーツァルトの歌だけが完全に美しいと思われる。(第37章、266頁)
さてそれでは、「イタリア人が怪物と呼ぶ」モーツァルトは別として、スタンダール はチマローザのどういうところが好きだったのか。スタンダールは1812年モスク ワ滞在中、イタリア語でこんなノートを残している。
私がチマローザを愛するのは、私がいつか産み出したいと思っている感覚sensation と同じものを彼が産み出すところからくるのだと思う。あの『結婚』の陽気さallegriaと情愛tenerezzaの混交は、私にとってまったく生来のものだ。(Journal IV, p.24)
チマローザの allegria e tenerezza、つまりスタンダールが産み出すべきものには優しい感情、愛情が入っていなければならず、また陽気さが不可欠であったわけである(注
1)。スタンダールの本領はしたがって『パルムの僧院』である。『赤と黒』の方
は、鈴木昭一郎氏の言葉を借りれば「壮絶な力技」の成果なのである(注2)。
フランス音楽はなぜ駄目なのか。それは、恋の表現をイタリア音楽からいくら真似ても、フランスでは恋愛は副次的情熱であって虚栄心、機知の方が大事だからである。イタリア人にとっては「本当に」音楽が好きだから劇場にやってくる。フランスでは人はコンサートに、自分の趣味の良さ、鑑識眼の高さを見せびらかしに行くのであり、楽しもうというのではない、というのである。
イタリアがどのジャンルでも<美の国>le pays du beauとなったのは、つねに新しい理想美を求めるからであり、各人が自分の心の声しか聞かないのでペダンチック派が当然の報いとして軽蔑されきっているからである。(『ロッシーニ伝』Vie de Rossini, 導入部、14頁)
ちなみに彼は、良い音楽というのは「そのときの夢想の対象を想起させ、いろいろす ばらしい考えを与える」ものだという言い方もしている。「スカラ座で1814年か ら21年の楽しい時期をすごせたのもそのためである」(『ブリュラール』第37 章、270頁)。考えの内容は「ギリシャ人を武装させる方法」(1822年2月。 1821年にはギリシャ独立戦争が始まっている)だったり(『恋愛論』De l'Amour 第16章、34頁)だったり「フェヌロンとモンテスキューを調和させる法」(1816年9月30日付 Louis Crozet の手紙。Correspondance I, Pléiade, p.824)であったりする。感覚論哲学の信奉者スタンダールとしては音楽という「刺激」に対応する 「反応」がどんなものであるかということに関心があるからこのような考察が生まれ るのであろう。バックグラウンド・ミュージック的発想と言うべきか。
注1)私事になるが、FMラジオでこの曲が放送されたことがあり、スタンダールの
好きだった曲だからという理由で筆者はたいして期待もせず聞いたのだが、これは実
に楽しいオペラである。スタンダールという人の感性が如実に理解される。レーザー
ディスクが発売されている(Pioneer, PILC-1124)が、あまり演奏される機会がないのは
まことに残念である。アレグロの素晴らしい序曲から、いささか安直なしかし楽しい
大団円まで間断するところがない。
注2)『人と思想/スタンダール』、清水書院、1991年、53頁。もっとも『赤
と黒』Le Rouge et le Noir も、チマローザの情愛と無縁なわけではない。あの陰険な雰囲気の主人公ジュリアン・ソレルが泣き崩れてしまったという『秘密の結婚』のカロリーナのアリアを一度聞いてみていただきたい(第30章)。ジュリアンがどういう感性の持ち主であるか、認識を改める人もあることだろう。
私は彼女にもうすこし激情 transports がほしかった。[...]美の点では、だれもこれ以上にめぐまれてはいない。私は、私が願っていた以上に、完全な、崇高な美を、もっとも美しいギリシア型の顔の優美さを目の前にしていた。しかし私はアンジェリーナ(=アンジェラ・ピエトラグリュア)にはあると想像する激情がほしかった。(1805年11月8日の日記、514−515頁)
結局メラニーに飽きてしまって別れた後、彼は再び軍隊に入り、今度は主にドイツで
仕事をする。パリでは女優のアンジェリーヌと同棲するが、彼女をほったらかしてス
タンダールは長期休暇を取りイタリア旅行にでかける。アンジェラと再会することが
予定に入っていた。1811年のことである。
11年振りに再会した意中の女にスタンダールは愛を冗談ぽく告白する。すると彼女
は「なぜその時言わなかったの?」と二度繰り返したという。アンジェラの部屋で待
ち合わせ。しかし約束の時間には彼女が留守で気をそがれ、二時間後に彼女を前にし
たときは意外にも心は全くときめくことがない。自分の口調の冷ややかさは「ふつう
のフランス人のしゃべり方がイタリア人よりずっと激しいために」目立たなかったら
しいが。このときアンジェラは「わたしの心の平静のために」ミラノを出発して頂
戴、と願う。最初スタンダールはミラノに一月滞在してその間アンジェラの愛人でい
ようと思っていたのだが、そう考えるとミラノが退屈に感じられる。彼女といないと
きにはいったい何をしていたらいいのか分からないというのである。それでスタンダ
ールはミラノを発つことに同意するのだが、その途端に二人にとって「全てが感動的
になった」というのが面白い。幸福に必要な激情がやってきたのである。出発日の前
日にやっと二人は結ばれる。しかし彼は「勝利」の日の日記に、幸福が完全であるた
めには関係を三度は重ねて「うちとけた間柄」intimitéにならなければいけないのだと書く。(以上 Journal III, Cercle du Bibliophile, p.222 sq)
全く注文の多い人であるが、彼が幸福を感じるためは、想像力がかきたてられること
と、自分も恋の相手も自然になれることが必要なのがよく分かる。
その後は、スタンダールが彼女にずいぶん金を貢ぎ、アンジェラの方は夫の嫉妬を口
実に持ち出してたくみに彼を操る、そういう関係であった。ナポレオン失脚でスタン
ダールが落ちぶれるとアンジェラも冷たくなったようで、そのうち別れてしまう。
エルミニアが冑をぬいで、彼女の美しい髪が房々と黄金の環を作って 両肩に波立ち、牧者たちの目を覚まさせる瞬間、彼女の美しい顔に は、弱々しさが、不仕合せな恋が、平穏をねがう心が、そして経験か らくる善良さではなく、同情共感 sympathie からくる善良さが必要なの である。 古代の美は力や理性や慎重さの表現である。ならばまさにこのような 全ての徳を欠くからこそ強く人を感動させるという情況を表現しなけ ればならないとき、古代の美ではどうしようもないことになるではな いか。(『イタリア絵画史』第115章、262頁)
スタンダール個人として、一番お気に入りの画家はコレッジオであった。優しく tendre、きついところがほとんどなくrarement piquant、誘惑的でséduisant、抵抗し難いirrésistible... 『パルムの僧院』への賛辞の謝礼として書いた バルザックへの手紙第二草稿で彼は、
サンセヴェリナ夫人の人物はみなコレッジオから写しました(つま り、コレッジオと同じ効果を私の魂におよぼします)。(『パルムの 僧院』付録、590頁)
[...]すべてを嘲笑する才能が卑俗なものとなり、幾世代もがそ ろって、同じように虚栄心以外のいかなる利益をも顧みず、同じよう に何らの光栄をのこすこともできずに、すっかり彼らの生命を、同じ 軽佻な物事をするためについやしつくしてしまったとき、人は人々の 精神に一つの革命がおこることを予告しうる。[...]強い感動が またふたたびもとめられ、もはやいわゆる粗暴さなどというものを心 におそれなくなるだろう。(『イタリア絵画史』第184章、404 頁)
すこし恋がさめてこないと、愛する女にたいして勇気をもてるもので はない。(『恋愛論』断章47、212頁)
もし彼女になにかしてやれるという幸福をもったとしても、ぼくの最 初の願いはそれをかくすことだろう。(第31章、76頁)
[イタリアは]ヨーロッパ風俗の現状では、これが私の記述する植物 [=恋愛]がすくすく自由に育つ唯一の国なのだ。フランスでは虚栄 心、ドイツでは噴飯ものの気ちがいじみた自称哲学、イギリスでは臆 病で悩みのおおい恨みにみちた自尊心がこの植物をいじめ、窒息さ せ、あるいはおかしな方向へまげてしまっている[...]。(第4 0章、116頁)
恋愛の諸段階についての記述の中でも「森を去ってパリに戻ろう」(第2章、11
頁)と書いてあることからも分かるように、やはり対象となる読者はフランス人なの
であるが、フランスは倦怠という文明病をかかえている。そこで:
文明の完成とは十九世紀のあらゆる繊細な快楽にもっと頻繁な危険の 存在をむすびつけることにあろう。(第41章、119頁)
中世では危険の存在が心を鍛えたのだ。私の誤りでなければ、そこに 十六世紀の人間のおどろくべき優秀さの第二の原因がある。(同、1 18頁)
『赤と黒』でマチルドの憧れるのが十六世紀であり、『イタリア絵画史』で扱われる
天才たちが十六世紀の芸術家たちであることとも呼応している。
イタリアの幸福は瞬間の感動にしたがうことだ。[...] そのうえイタリアは中世共和都市の美徳であった有用が名誉心つまり 君主に都合がいいようにゆがめられた美徳に王座をうばわれなかった 国である。真の名誉心も愚かな自尊心への道をひらく。愚かな自尊心 は習慣的に自問する、「私の幸福を他人はどう思っているだろうか」 と。しかし愛情の幸福は外にあらわれないものだから虚栄心の対象に はならないのである。(第43章、123頁)
結局スタンダールは死ぬまでチヴィタ=ヴェッキア領事のポストにいることになる。 『パルムの僧院』は、延長につぐ延長で3年の長きにわたった休暇の間にパリで書き上げられた。1842年3月に彼が卒中で昏倒してそのまま世を去ったのも、休暇中のパリでのことだった。『イタリア年代記』続編執筆の契約で、これまでの最高額の金を受け取った直後だった。墓碑銘に「ミラノ人」とイタリア語で刻むよう遺言が残されていた。
その他、文学をはじめ、古代ローマの継承者としてのイタリア、風景、建築、果ては その料理まで、スタンダールにおけるイタリア性を巡る議論はまだまだ尽きることが ないが、それはまた稿を改めて論じることにしたい。
[注] 引用は、『スタンダール全集』(人文書院刊)に日本語訳が存在するものに
ついてはそれにより、『ロッシーニ伝』は山辺雅彦訳(1992年、みすず書房刊)
により、同時に頁数を付した。ただし都合により訳文を改変させて頂いた箇所がある
ことをつけ加えておく。日本語訳が存在しないものについてはセルクル・デュ・ビブ
リオフィルCercle du Bibliophile 版全集を底本に筆者が訳出した。