遠くから
エドゥアール・グリッサン、パトリック・シャモワゾー
フランス共和国内務大臣殿
マルチニクは、古くからの奴隷制度と植民地主義の土地であり、新植民地主義の土地であります。しかしこの終わることのない苦しみは貴重な教師でもあります。わたしたちに交換と分かち合いとを教えてくれたからです。非人間的状況というものは、支配される人々の心の中に胸の高鳴りを、そこから尊厳を求める要求が常に湧き上がる胸の高鳴りを守るのです。わたしたちの土地はそういう尊厳を求めるのに最も貪欲な土地のひとつです。
今日ひとつの国の国民が、世界という共同体を形作っている原理について無知であるようしむけられるような狭いアイデンティティに閉じこもるということは、考えることすらできません。共有されたすべての過去の真実を分かち持つ静かな意思、来るべき責任を分かち持とうとする意思決定こそ世界という共同体を形成するものです。ある国民の偉大さはその経済的、軍事的勢力によるのではなく(それらは自らの自由の保証でしかありません)、世界の歩みを尊重する能力に、寛大さと連帯の観念が脅かされ弱っている場所に馳せ参じられる能力に、強大であれ弱小であれ全ての民族に真に共通の未来を、短期的におよび長期的に、絶え間なく準備する能力にかかっているのです。そのような国家がその教育機関において、権威主義体制が必ず採るような教育方針を法律によって提案する(あるいは押し付ける)ということ、そしてその方針というのが端的にある企みの責任、全ての面においてその国家を潤し、あらゆる意味において弁解の余地なく断罪されるべき企みであった植民地化の責任を認めない方針であるというのは、考えられないことです。
移民の諸問題は世界的なものです。移民たちの出身地である貧しい国々はますます貧しくなっていき、これら移民を迎える富んだ国々、ときにその労働市場の需要のために移民の受け入れを組織していた国々、あえて言えば一種の交易のように行っていた国々は今日おそらく飽和状態に達し、選抜的交易に向かおうとしています。しかしこのような搾取によって作られた富はあらゆるところに際限のない貧困を生んでいます。そしてその貧困がまた新しい人間の流れを生んでいるのです。世界はひとつの全体をなしており、そこでは過剰と欠乏はもはやお互いを無視してはいられません。それは片方がもう片方から生まれているだけになおさらです。それゆえ今現在提案されている諸々の解決策は、状況の深刻さには見合っていないのです。統合政策(フランス)と共同体主義政策(イギリス)とは、この問題に関心ある政府が採用する二つの一般方針ですが、これら二つどちらにおいても、生活不可能なゲットーになんの救いもなく放置された移民のコミュニティーは、その受入国の生活に参加するいかなる現実的方策も持っていないのであり、彼らのルーツの文化さえも、多くを欠落させたような、こわごわとした、受身の仕方でしか持っていないのです。そういう文化はある場合には退行文化になってしまいます。英仏両政府の選択のどちらも真の「関係」をうちたてる政策を提案してはいません。それはつまり素直に差異を受け入れること、移民の持つ差異がいかなる共同体主義にも委ねられないようにすることです。総括的および個別的な社会的、財政的方策を実施すること、それがあらたな種類の分割を生み出さないように実施することです。諸文化が相互浸透することの意義を認めること、このようにして相接する状態におかれたさまざまな民族を薄めたり、消耗したりすることなしに認めることです。このような平衡点に身を置くことに成功すれば、世界の持つ恐怖の光景を視野から失ってしまうことなしに真に世界の美の一つを生きているということになるでしょう。
もしおのおのの国民にこれら基本的原則が宿っていないのなら、肉体的外見を基とした宣伝になるような任命、美徳とみなされる差別是正のための差別、人が自らの免罪符とする移民層採用割当、より踏み込んだ施策を強いられた世俗機関による諸宗教への財政援助、そしていまだに昔の支配の犠牲者であり続けている南の人々のためになされた全ての援助は、世界にわずかに触れただけであり、世界と正面から取り組んではいないのです。それどころかこれらの方策はその周囲に、不法滞在者を送り返す毎日のチャーター便、留置場、警察の硬化した態度への報酬、年間強制退去数の新記録といったものをはびこらせているのです。無理に考え出された脅威、声高に言いたてられた脅威への芝居がかった対応とは、現実に対して無感覚なままにとどまった方策の失敗に他なりません。最悪化の社会的状況さえ、否、特にそういう社会状況の最悪さこそが、それを洗浄処理するなどということを正当化できなくするのです。人間存在を前にすれば、その人が最も圧倒的な法的血統書によって濁らされていても、そこにはまず言語にできない苦悩があるのです。問題は常に人間的なもの、多くの場合経済的論理に押しつぶされている人間的存在に関わります。滞在の許可を与える共和国は人間的尊厳に門戸を開いているのであり、その尊厳にこそ、全ての生きた存在がもつはずの考える権利、誤りをおかす権利、成功し、失敗する権利が存するのです。そしてそのとき共和国は自らの法によって罰を与えることはできますが、いかなる場合においてもすでに与えられているものを取り上げることはできません。物質でことを済ませるような贈与、相手に頭を下げさせることと沈黙させることを想定するようなもてなしは、統合よりも分解の方に近いのであり、常に人道的なものからははるかに遠いものなのです。
世界はわたしたちにその複雑さを開示しました。以来、わたしたちひとりひとりは、多くの帰属先をもった一個人、その帰属先のどれひとつにも還元してしまえない一個人となりました。いかなる共和国もこれらの多=帰属の表現を調和させることなしにその本領を発揮することはできないでしょう。このような関係的=アイデンティティが古いタイプの共和国の中に場所を見つけるのはいまだ難しいことです。しかしそれら古いタイプの共和国が呪いのようなものとして喚起するものというのは、しばしばいまひとつ別の共和国に参加したいという欲求なのです。「一にして不可分」の共和国は「統一された諸共和国」という、世界をその多様性の中に生きることのできる複雑な存在に場所を譲らなければなりません。わたしたちは共和国という契約を、世界という契約と同じように信じています。そこでは自然な意味での「国民」(わたしたちマルチニクの国民のように未だ国家を持たないものも含めた「国民」です)が声をあげることができ、自らの尊厳を表現することができるような契約です。いかなる記憶も、単独では残虐の回帰を防ぐことはできません。ショアーの記憶は、奴隷制の記憶やその他の全ての記憶を必要とします。それらの中に隠れている思想は、思想自体を侮辱しているのです。民族虐殺は、それがどんなに過小評価されたもの、小さなものでも、わたしたちをじっと見つめているのであり、それだけ多=横断的=文化社会を脅威にさらすのです。国家的歴史の大英雄たちは、今や彼らの美徳の部分と恐怖の部分を両方とも正しく引き受けなければなりません。なぜなら今日、記憶は世界の真理を前にしているのであり、「共に生きること」はいまや世界の諸真理の平衡のなかに位置付けられているからです。今日の諸文化は、世界への現前の諸文化です。今日の文化は、世界の文化的熱情の集中の度合によってのみ値打ちが測られるのです。諸アイデンティティは開かれていて、流動的で、世界のエネルギーの中で「交換しながら自らを変える」能力によって花開くのです。不法移民がいくらいようと、便宜的結婚がいくらあろうと、偽の家族呼び寄せがいくらなされようと、正しい態度、歓待と開かれた態度をくじけさせることはできません。テロリストへの恐怖がいかなるものであろうと、私的生活と個人の自由への敬意の原則を放棄させるものではありません。監視カメラの中には政治的知性よりも盲目が、社会的または人間的な寛大さよりも将来における威嚇が、安全性への実質的な進歩よりも不可避の退行があるのです・・・
わたしたちがあなたに、遠くから、しかし穏やかに、マルチニクへの歓迎の言葉を述べることができるのは、これらの観念の名において、これらの原則のみによってなのです。
(訳文はこれからも適宜改変します。最終更新:2006.1.21.)
原文:
http://www.palli.ch/~kapeskreyol/articles/deloin.php
http://www.ldh-toulon.net/article.php3?id_article=1067
http://www.afrik.com/article9171.html
http://multitudes.samizdat.net/article.php3?id_article=2180
http://www.humanite.fr/journal/2005-12-07/2005-12-07-819636
トップページに戻る